論語と「木曾の最期」の授業

 9組と4組での授業。9組は論語の「弟子」としてまとめられているものへと進んだ。今回は顔回についての話が少なく、掲載されているのは顔回が死んだのを孔子が嘆く、というものだ。もっと顔回との対話のあるものを取り上げればよいのに、と思う。孔子顔回を自分の後継者にと考えていたほどの、優秀な人物だった。それを先に失ったことは孔子にとってはどれほど悲痛なことだったろうか。その悲痛さはよく分かるのだが、それは顔回の優秀さが分かってのことだ。顔回との対話を紹介しなければ意味がない。
 そこで、掲載されている中から、司馬牛との対話や子路との対話の2編を選んで教える。論語は、もちろん内容は素晴らしいのだが、一つ一つの文が短く、それでいて含意が深いので、教える方としてはなかなか難しい。論語のマンガを紹介してみようか。
 4組はまだ「木曾の最期」が終わっていなかった。最後の最後、兼平の自害の部分が残っていた。そして、義仲の討たれた理由と兼平が自害した理由を考えさせる。このクラスは、「考えてごらん。隣の人と相談してもいいよ」と声をかけると、本当に隣同士で考えを述べ合うから非常に素晴らしい。むしろ、これをもっと活用して、生徒自身が学びを手に入れるような授業をデザインすべきなのだ。ところが、相変わらず残り時間が少ないので、生徒の意見をしばらく聞いたあとで、こちらからヒントを出し、こちらの用意した答えへと導いていく。答えの深さはそりゃ教師のものが深いものだが、生徒だって自分たちでそこまで十分に到達できるはずである。何とかそんな形を生かした授業をしたいものだ。