紀貫之の自邸はどんな規模?

 8組、10組、2組での授業。10組のみは「亡児」の最後の場面を扱ったが、8組と2組では「帰京」に入る。この「帰京」では、貫之が京都の自邸に帰り着いた時、自分の家が荒れ果てていることを嘆く場面から始まる。隣家の人に管理を任せておいたのに、である。その隣家の人とは「中垣こそあれ、一つ家のやうなれば、望みて預かれるなり」となっており、一つの家のようになっていた、という。しかしこれは考えてみればイメージしにくいことだ。そこで、今日は平安時代の敷地の在り方を徹底的に生徒と一緒に確認した。
 以下の作業は、生徒の持っている国語便覧の資料を使わせた。

  1. 貫之の旅の日程を確認し、土佐から京都へ入ってきたことを確認する。
  2. 京都の平面図を確認して、貫之が羅城門から入京し、朱雀大路を通って行ったことを確認する。
  3. 貫之の自邸のある場所を確認し、貫之の入京以降の足取りについて確認する。
  4. 貴族の自邸には一町以上の敷地を持つものがあることを指摘する。
  5. 当時の貴族は複数の町を合わせて敷地とし、豪邸を建てていたことを、光源氏の六条院などを例にして説明する。
  6. 対照的に、貫之は中級貴族であり、彼の家は一町を分割して、他の人(おそらく同じ中級貴族)と分け合って住んでいたことを指摘する。
  7. よって、その境界ははっきりしておらず、そのために「帰京」でのトラブルが発生したのだ、と説明する。

 このように、貫之がどのような暮らしをしていたのか、そして「帰京」での背景がどのようなものなのかを、なるべく具体的にイメージできるように説明していった。
 ここまでやって、ようやく読みの練習をし、口語訳を始めた。もちろん、上記の説明で授業時間の大半を使った。
 それでも、古典の授業においては作品世界について具体的にイメージを持たせることが重要である。特に『土佐日記』の場合は、遠く土佐からようやく帰京したというのに、自邸が荒れ果てていたことのショックと、新しく生えていた小松に、亡児のイメージを重ね合わせて悲哀を感じるところに真骨頂がある。それをリアルに感じさせるためには、いかに具体的な背景のイメージを抱かせるかにかかっている。
 久しぶりに楽しく授業をした。