「『間』の感覚」のロジックツリー作りは難しいぞ

 今日は現代文の授業はない。2組の古典の授業があり、土佐日記の「帰京」を何とか訳し終えたところだ。
 それなのに、その1コマの授業以外のほとんど全部の時間を使って、今日はずっと「『間』の感覚」のロジックツリーを自分なりに作っていた。実は、まだ完成していない。うーむ、私がこれだけ時間を費やしてもまだ納得いくようなロジックツリーができないなんて、なんてこの文章は論理構造が混乱しているんだ。
 この文章は頭から順番に素直に読んでいくと何となくすんなりと分かる気がする。西洋と日本との様々な事柄の対比が次から次へと紹介されていて、何となく分かりやすい気がするのだ。しかし、この文章の問題提起と、それに対する筆者の主張をまとめようとすると、そしてそれを説明するための論理展開を整理しようとすると、これが非常に難儀する。要するにラベリングが全くされていないに等しいのだ。そこで、ロジックツリーを描くためには、こちらでもう一度ラベリングを施し、構造のつながりを整理して、再構成する必要がある。多くの項目を自分で考えて補わなければならないのだ。これは実に難しい作業だ。はっきり言って「悪文」と言っていい。ただし、日本の評論文にはこういうものが多い。直線的に読んでいくと何となく分かるような気がする。しかし、論理的に読もうとするときわめてつかみ所がない。三森ゆりか氏はかつて私に「日本の評論文といわれる文章は実は『随想』だ」とおっしゃっていた。本当にそのことがうなずける。論理構造を意識して文章を読んだり、文章を書いたりするためには、「評論文」を扱っちゃいけないんじゃないかな。学術論文やビジネス文章を教室に持ち込むべきだと思う。
 さて、私でも悪戦苦闘しているロジックツリー作りを生徒にさせることにどんな意味を持たせればいいだろうか。3組と9組で行った感触では、生徒はお互いに話し合いをしている時に「なるほど、そう考えるのね〜」などと言ったりしていた。つまり、互いの考えを紹介しあったり、見たりして、そのやり方や考え方を参考にしたり、あるいは意見を言ったりしていた。それをもっとやりやすくするような授業デザインが必要だろう。
 また、私自身が描いてみて気づいたことは、ツリーのボックスに書き込む内容よりも、ボックス同士の論理的つながりをどう考えるかに時間がかかったことだ。ということは、その部分を生徒同士で考えながらやらせると良いのではないだろうか。
 そのために、例えば付箋を使った授業を展開してみようか、と思っている。付箋をボックスに見立て、付箋に書き込むべき内容は私が用意してやり、その付箋同士の関係を友人同士でわいわい言いながら考える、また、必要な新たなボックスは自分たちで付け加える、というのはどうだろうか。それならば1コマ65分の中である程度のロジックツリーを描けるかもしれない。さらにその時間内で他のグループの作品を見させて、交流させると良いかもしれない。そして、全員でよりよいロジックツリーをまとめ上げることができるかもしれない。
 うーむ、事前準備が大変そうな思わぬ展開になってきたなぁ。でも、面白そうである。