「無常ということ」の授業

 1組での授業。これまた夏休み前最後の授業である。「無常ということ」の読解が途中になるので、きりのいいところまで進んでおく。
 まず、久しぶりにリーダー・レスポンスを行う。お題は、「ある美しいものに出会って感動したとする(たとえば曲など)。それと同じものに2度目に出会った時、果たして感動は同じか否か。」というものだ。これは教科書の指導書にもあった設問だが、美的経験というものの構造を考える際の端緒となる問いである。すなわち、もし感動が違うとするならば、「美」というものは対象に存在するのか、それとも主観の中に存在するのか、という問題へとつながる。これが「美学」である。このことをまず考えさせたかった。生徒のレスポンスを後で読んだが、2回目は変容すると答えた者がほとんどだった。「感動が薄れる」派と「感動が深まる」派とに分かれたが。
 授業は次に、前時で生徒に書かせた要約文を紹介した。ある班のものは「生きている人間とは一種の動物的状態である」ということを否定的に捕らえていた。そこから逃れるために「無常」を意識する必要があるのだ、と。さて、それは本文の主張していることではない。そこで、他の班の要約文にはそうしたことが触れられていないことを指摘し、この文章がいかにまとめにくいかを話した。それはそうだ。この「無常ということ」は、筆者が経験したことを、論理的な思考によって説明することを拒み、経験したことそのままで捕らえようとしているのだから。そしてそのためには、自分が経験した美的体験を再現できないという否定の形でしか示すことができないのだから。
 そこで、プリントを使って学習を進める。まず、冒頭にある『一言芳談抄』の「なま女房」の言葉の中から、「常なるもの」と「無常」を示す部分を抜き出させる。私は生徒に作業をさせた後、必ず「隣近所と答えを確認しなさい」と指示する。こうすることで安心感を持つことができるとともに、交流ができるだろうと思うからだ。生徒は「隣の人と反対だ〜」などと言っている者がいた。
 その答えを確認し、さらにこの『一言芳談抄』が冒頭におかれている意味を末尾部分と照らし合わせながらまとめ、この文章は「常なるもの」と「無常」を示す部分がいくつもちりばめられていることを指摘する。さらに、その2つとは対置されている視点=現代の風潮を示す部分とがあり、全部で3つの要素があるのだ、と示す。そこで、その3つの要素を示す部分を前半部から探し出そう、と指示し、前回同様グループを組ませて作業に入らせる。
 リレー物語がよほどグループ内を融和させたのか、それとももうこのクラスはそういう雰囲気ができてきたのか、話し合いはスムースに進んでいた。中に、自分にとっての「みそラーメン」は「常なるもの」だ、という論を展開して班員に説明をしている者がいた。そのユニークな説明に周りの生徒が聞き耳を立てていて、時折笑いが出たりしていた。うんうん、素晴らしい光景だ。「無常ということ」を読解する途中で笑いが出るなんて、最高ではないか!
 授業終了寸前で話し合いを終了させ、この3つの要素の関係から考えられることをまとめとして示して、授業を終える。これで夏休みに入っても、未消化感が多少は少なくなってよいだろう。もっとも、授業再開後はまた最初から復習せねばならないが。