「無常ということ」の授業

 1組での授業。何となく久しぶりである。先週は実力テストのために授業がつぶれたからね。
 「無常ということ」の後半部分の残り半分から始める。しかしここが一番の難所である。「思い出が我々を一種の動物であることから救うのだ。」などという、訳の分からない文を何とか分かったかな?という気にさせなければならない。あれやこれやと説明の工夫をして、一気に説明する。この文章は一種の古典である。古典は生徒自身が読み込んでいくという授業もあるだろうが、本当に専門的な場合は教師が説明をしてやらなければならない。「無常ということ」はそうした生徒の想像できる範囲を超えている部分があるので、もうそうした所はこちらで説明した方がもやもやが解けてすっきりする。そう思って、生徒に発問をしながらどんどんまとめていった。
 「過去から未来へと飴のように延びた時間」の説明において、「飴のように」という比喩の意味を生徒に問うていった。「四角くて大きくて変わらない」「丸い」などなどユニークなイメージが出た後で、「『延びる』ということから水飴のようなもの」という意見が出て、これはなかなか秀逸だった。ただ、授業中は別の説明をしたが、水飴ならば「延びる」ではなくて「伸びる」でしょう。「延びる」というのは変化することなくずっと延長していくという意味だから、そこからしても「金太郎飴」のイメージの方がより適切である。生徒にはそうした本文の表現にこだわる説明をすべきだったな。なぜ筆者がその表現を選んだのか、そこには意味があることを理解させたいものだ。でも、「水飴」というイメージは本当に素晴らしいものだった。そのおかげで生徒全体の理解が「ぐいっ」と進んだはずなのだから。
 ということで、ようやく「無常ということ」を終えた。本来これは夏休み前の中途半端な授業時間用に選んだ教材なのだが、思った以上に難物で時間がかかってしまった。次の「責任と赦し」の方がまだ分かりやすいわい。