「山月記」の授業

 19日以来のご無沙汰でした。20日に大学でのゼミがあり、その準備で忙殺された後、夜遅くまで起きて動くよりも朝早く起きた方がよいと思い、それを実行していた。ところが、やはりついつい眠いのだね。夜早く眠り始めるのだが、起床が結局普段と変わらなかったりする。おかげでblogを更新することができずにいた。生活習慣の変更は難しいものだ。
 さて、8組と3組での授業である。8組では、月曜日から教育実習生が来ていて、そのうちの一人がこの授業を見学した。終わった後で感想を聞いたが、話し合いがあまり活発ではなかった、ということだった。私は現代文でも古典でも、少ししっかり考えて欲しい発問は、まず一人一人に時間を与えて考えさせた後、隣同士でその考えを交換し合うことをさせている。そうすることで、より考えを深め、自らの考えについてメタ認知を持てると考えるからだ。今日の授業でもそうしたことをしていたのだが、8組というクラスは席替えをした後は、隣同士で話してみようと言ってもあまり活発に話し合いをしない。その点を実習生は見ていたようだ。なるほどね。私としては、私が周到に用意している発問について見て欲しかったのだが。あるいは、その程度は他の教員もやっていることなのだろうか。
 3組では8組よりも少し進んでいて、「臆病な自尊心と尊大な羞恥心」の意味を確認する所からスタートした。私は4クラス現代文を教えているが、一番進度が速いクラスでこの5段落を終えようとしているところである。いつ番遅いクラスはおそらく明日の9組であろう。まだ李徴の漢詩について考えていないはずだ。確かにいろいろなことを丁寧に読み取っていると、どんどん時間がかかってしまう。だが、そんな授業に意味があるのかなぁ。このことで「読む」ことを伸ばしているのだろうか。
 私の研究テーマは「読みの交流」である。今回は授業は通常通りに丁寧に教え、その読会が終わった後で読みの交流をさせようと考えていた。だが、ここまでいろいろと教え込んだ作品について何をテーマにして交流をさせるべきなのか分からなくなってきた。
 うーむ、やはり研究テーマの絞り込みとそれに対応するデザインをしっかりするべきだったのだね。今回は授業をしながらデザインを考えていこうと思っていた。どうもそれが破綻しかかっている。
 さてはて、困ったものだ。