「古畑型授業」による短歌の授業の意義

 3組での授業。短歌の授業の1時間目である。今日は55分授業なので、与謝野晶子の短歌のみしか扱えなかった。
 このクラスはいつもは非常に反応が良く、楽しいクラスである。しかし、この短歌の授業にあってはいつもの反応の良さが少し潜んでしまう。晶子の短歌を書写させ、疑問点や発見を話し合わせて述べさせたのだが、あまりこちらが期待するような発言がなかった。勢い、こちらの方で検討すべき点を述べてしまう。そうすると何となく主導権が教員に移ってしまう。
 ただ、その後の、この歌に対する評価を先に掲げ、それの根拠を指摘させる段階では、まあまあの反応をしてくれた。晶子のこの歌は、解釈がなかなか難しいのだね。表面上の意味は取りやすいが、「黒髪のおごりの春」が「うつくしきかな」と続くあたりは、生徒自身が意味に気づくには難しいだろう。
 他の学校の国語教師を親に持つ生徒がいるのだが、その生徒は他の同僚の授業を受けている。その生徒が「短歌の授業は、生徒に何だかんだと解釈をさせるのだけれど、結局先生が解釈をまとめて押しつけてしまうのだから、だったら最初から先生の解釈を伝えればいいのに」と感想を言っていたそうだ。
 ありがちな感想だと思うが、やはり真実をついているのではないか。短歌は短いだけに、なおさら教員の解釈の押しつけという印象を受けるのだろう。
 そこから、逆に「教員の解釈を先に示し、それが成り立つ根拠を考えさせる」という「古畑型授業」の有効性が、やはり支持されるのではないかなぁ。確かに、生徒がどんなに解釈をしても、結局教員の解釈にまとめられてしまっては、生徒には徒労感が残るだろう。