「柏木」の授業

 8組と7組での授業。どちらのクラスも「柏木」の冒頭部分を口語訳する。その前に、源氏が女三の宮を「今しも(今更ながら)」大切に取り扱う理由について考えさせていた。その解説を、生徒に質問しながらしていった。「今しも」というのだから、①「今」、女三の宮はどのような状況にいるのか、②それでは、これまでは源氏は女三の宮をどう扱っていたのか、という2つの質問を立て、生徒に聞いていく。それらの解答を踏まえながら、源氏が、不義密通を犯した女三の宮を赦せない気持ちでいるものの、若くてみずみずしい尼姿の彼女に対して未練たらしく恨み言を言っている、という状況を理解させていく。生徒の解答には、女三の宮が出家して自分の産んだ子に会えないでいるため、源氏が気遣って優しくしているというような「性善説」に基づく予想をしていた。しかし、この「柏木」では人間は性善説だけでは説明できない、ということをまざまざと見せつけられる実体を、源氏が見せてくれる。
 これは、もうじき社会に出て行く彼ら生徒たちにとって非常に良い教材となったのかもしれない。正直言って、今でも「柏木」を教材として選択したことに悔いを感じている。生徒に聞いてみたところ、与えた問題集に載っていた「御法」は問題を解いている生徒がほとんどいないことが分かった。だったら、「御法」を授業で取り上げてもまず問題はなかったのだ。紫の上の最期を見届けることで、この源氏物語の授業は完結できると思っていただけに、「御法」を取り上げられないのははなはだ残念であった。
 しかし、「柏木」は源氏の嫌な面が多く出てくる。女三の宮に対する皮肉や明け透けな「おじさん」的好色さが顕わになってくる。しかし、これもまた紛れもなく「人間」の姿である。きれいごとだけではやっていけない。生徒たちがこれから出て行こうとする社会は、残念ながら上記のような人間の暗部もまた渦巻いている世界だ。そうした世界の一端を、物語の読解を通して体験できるというのは、とても良いことではないだろうか。
 小説作品を読むことの、大切な意味がここにある。それは単に読解力を養うための素材だけではない。人間を理解するための、そして社会をあらかじめ体験するための、いわばシミュレーションである。人間の善性だけではなく、暗部も見つめる、その精神力を養いたいものである。
 今、読んでいる『考えあう技術』の、ちょうど読んでいる部分に関連することが書いてあった。読書によって、今起きている事柄の意味を考えることができた。