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「死にゆく生」についての評論を読む

 東大入試対策の演習授業も今日から2廻り目に入った。今日は評論の第2回目である。扱う文章は「死にゆく生」をどう捉えるかというもので、根源的受動性に置かれた死にゆく人とそれを見つめる人との間にはどのようなことが起こるのかを考察し、「死にゆく生」に対するには、能動的な人生の意味を追求するあり方から根源的な受動性の位相を感受するあり方へと転換しなければならないと訴える。言わんとすることは何度か読んで少しずつ分かってきたのだけれど、何しろ「超」難解な文章である。言わんとすることは結構はっきりしている。だが、それを表現する語彙がきわめて抽象度の高いもので、それが次から次へと連続するために、筆者が言わんとすることが何なのかが次第に分からなくなってくる。これに取り組んだある生徒によると、「今まで読んできた文章の中で一番難しいものだ」と言うことだ。賛成である。まあ、「一番難しい」とは言えないが、私の場合。
 この難解な文章を、それでもこちらはある程度噛み砕いて解説し、設問に対する解答の糸口を示さなければならない。そのために、この文章については恐ろしく時間を費やした。昨日の午後のほぼすべてと、今朝の時間、および授業が始まるまでの時間である。およそ10時間は下るまい。本文を解説するプリントを作り、設問に解答するための解説プリントも作った。さらに、それらを自分で穴埋めし、授業に備えた。いやぁ、3年前の夏休みを思い出す。あの時も2週間くらいぶっ続けで連日3時間くらいの睡眠でプリントを作り続けたものだ。
 これを利用して、授業では何とか解説をする。それでも生徒には十分には分からなかっただろうなぁ。途中で電子黒板の調子がおかしくなり、本文の具体的な場所を視覚的に指し示すことができなくなったこともあり、分かりにくい説明になってしまったかもしれない。それでも全力を尽くした。
 終わった後、生徒から添削の依頼が多く舞い込んだ。嬉しい悲鳴である。何とかこなして、次の作業に取りかかる。
 さて、明日は私の博士論文についての口頭試問が行われる。このための準備をし始めた。何しろ書いた博論はA4用紙で200ページを超えるものである。自分で何を書いたのか、細部で忘れかけているところがある。それを再確認して、論文審査に臨みたいところだ。でも、自分の博論の中身を少し確認しだしたところ、おぼろげながら思い出すところがあった。さすがに膨大な時間とエネルギーを注ぎ込んで書き上げたものである。今の段階なら、少し確認するだけで結構思い出せる。それでも、もう一度時間をとって、内容を再確認し、審査で話すべきことを確認しておこう。