「どくしょ甲子園」ワークショップに参加した

 高教研図書館部会の研修会が開催された。大雪の中、それでもほぼ当初どおりの参加者が集まった。その理由は、夏の北信越図書館大会で紹介された、朝日新聞社の「どくしょ甲子園」を体験してみよう、というワークショップがあるからである。この「どくしょ甲子園」自体は朝日新聞社の独自の色づけがされているけれど、要は本をグループで読み合う読書会である。しかもそれをリテラチャー・サークルの手法を用いて行うのである。自分自身でもリテラチャー・サークルの授業は行ったことがあるが、生徒の参加度はかなりばらつきがあった。自分で参加することで、何か1年前では分からなかったことが見えてくるのではないかと思っていた。体験した結果は、「なるほどね!」であった。この手法の良さ、その意味、さらに私の実践が不調に終わった理由など、うっすらと理解できた。やはり自分自身が体験してみないと分からないね。
 読書会は朝日新聞社東京本社の「どくしょ甲子園」担当の方に来ていただき、その方のご指導の基で行われた。題材は芥川龍之介の「蜜柑」である。結果的に全体として90分ほどの時間で行われた。4人1組のグループになり、それぞれに「思い出し係」「質問係」「照明係」「イラスト係」という4つの役割を一つずつ割り振る。これは「コネクター」「クエスチョナー」「リテラリー・ルミナリー」「イラストレーター」にそれぞれ当たるのであろう。そして、この場で「蜜柑」を読み(我々は事前に読んで来たので、すぐに話し合いに入った)、4つの係から順番に話題を投げ掛けて、他の3人もその話題について意見を述べていくのである。
 私が所属したグループで、私は「照明係」を受け持った。そして、「思い出し係」から話題をいくつか提供され、そのことについて話し始めた。我々の場合はちょっとイレギュラーで、いきなり「この作品には色が印象的に使われている」という話題提供から始まった。そして、全体がくすんだ色合いで覆われている中で、娘が投げた蜜柑の色が鮮やかである、という意見を述べた。そのことに関して話し合いがされていたのだが、私はすぐにこの作品の中に出て来る色の名の全てに丸をつけていき、この作品は全体として「赤」色が多く出ていることを報告した。そんなことからまだ話題は発展していった。「他の作品などの思い切り離れた別の場面を思い出す」という課題からは外れた話し合いになった。でも、おそらくそれでよいのだろう。「正解」などはないのだ。読者がそれぞれに反応する、その反応こそが真実なのだから、それに沿って話をしていけばよいのだろう。ある程度の進め方はあるが、それを厳密に守ろうとするとせっかく動いている話し合いの流れが滞ってしまう。
 次に「質問係」の番である。その先生の質問を出発点として様々な質問が出され、解釈がなされ、いろいろな方向に話は進んでいった。そうして、このクライマックスの事件は確かに人生の倦怠を忘れさせるような清涼剤的なものだけれど、それは一瞬のことだったのだ、という認識に落ち着いていった。
 「照明係」はそうした認識を裏付けるような箇所を指摘することから始まった。私がそうした箇所を指摘し、他の方がそれに付け加えていった。そこでまた質問が始まったり、解釈が始まったりした。この行ったり来たりも良い感じである。
 最後に「イラスト係」の先生が印象的な場面をまとめていく。他のメンバーが大まかな構図を提案したり、それを参考にしたりして、イラストを描いていった。
 その際、朝日新聞の担当者から「各グループでこの作品のキャッチ・コピーを作ってください」という課題が出された。我々はできあがったイラストの上に、人生の疲れや倦怠、社会の矛盾などを忘れさせてくれる「蜜柑」の事件ではあったが、それが瞬間のことであり、その後しばらくすればまた主人公は倦怠の中に戻るのだろう、という意味を込めて、微分不等式で表現してみた。まあこれは、説明されなければ分からないだろうね。
 その後、各グループでどんな話し合いがなされたかの簡単な報告と、描いたイラストとキャッチ・コピーの紹介がされた。
 この体験をして理解できたことがいくつかある。

  1. 4つの係は参加者全員に発言の機会を与えるためのものであるということ。したがって、その役割を厳密に守る必要はないかもしれないと思った。係はその担当する役割方面からの話題提供者であり、後はメンバー全員でどんどん話を進めていけばよいと思う。
  2. だが、4つの係は非常に有機的に関連しているということ。この「思い出し係」から始まる順番は、作品の中に深く入っていくための良い順番であるなあと思った。特に、「照明係」と「イラスト係」が後に置かれているのは意味が深いと思う。
  3. 最後にキャッチ・コピーを考えさせたのも意味が大きい。話し合いの流れを発散させたままで終わるのではなく、ある程度の収束をかけることができる。
  4. 4つの係は小説を読むための方略でもある。これは方略を意識させずに意識的に使わせて本を読ませよう、ということになるだろう。こうすることにより、方略の育成ができるだろう。
  5. そのためにも、読書会は「正解を求めない」ことが必要だ。どこかに正解があると思うと、自分たちの考えが無駄になってしまう。正解にたどり着こうとするのではなく、自分たちがどう読んだかが重要なのだ。またそれが、現実生活において我々が小説を読む時にしていることである。
  6. 会の最後に質問をしてみた。自分が羅生門の授業の時にリテラチャー・サークルを試してみて、話し合いの進むグループとさっさと終わってしまうグループとが出たのは何故なのかを担当者に聞いてみた。担当者の答えは「自分たちが選んだ本ではなかったからではないか」というものだった。自分たちが選んだ本なら、何も仕掛けをしなくても積極的に話そうとするだろう、と。なるほど、こんなところにもローゼンブラットの交流理論の反映が生きているのだなぁと思った。そして、やはり自由な選書が必要なのかと思わせられた。担当者は「10冊くらいの本を用意して、この中から自由に選ばせる」というのでも良いのではないか、と提案されていた。これも、なるほどである。

 大雪の中、参加するのは実は少々気後れがしたのだが、参加してみて非常に良かった。そして、自分のテーマとのつながりや今後の指針についても「実感」ができたのが嬉しい。やはり、体験してみなければ分からない。