陶淵明のターニングポイントを探る

 10組での授業。助動詞の小テストを終え、今日から漢文に入る。扱うのは陶淵明の「桃花源記」である。実は私は、「桃花源記」を扱うのは初めてか、極めて久しぶりである。非常に興味深い、良い話なのだが、句法的に単純なので、なかなか今まで扱えないでいた。今年は私のたってのリクエストで扱うこととなった。
 さて、今日はまず、陶淵明の人生について国語便覧を使ってたどってみる。何しろ約1500年前の中国での話だ。想像力を働かせない限り、彼の人生がどのような者かを思い浮かべることはできない。しかも、今回使った国語便覧はあまり説明が詳しくない。そこで、いくつかのページを示して陶淵明の人生を浮かび上がらせた。
 まずは彼の説明箇所から、陶淵明がどのような人物でどのような人生をたどったのかを確認する。そして、南北朝時代の地図を開かせ、彼がどの地域で活躍したのかを確認させる。このように、文章と地図、聴覚的と視覚的の情報を組み合わせることにより、少しでも1500年前の事実が現前に浮かび上がるように配慮した。そうでもしないと事実だとは思えないものね。
 そして、板書してまとめながら、陶淵明がその能力を活かして出世の道を歩むか、しかしそれは俗世において上司にこびへつらうことであり、それを潔しとしない覚悟をもって仕事を辞めて農耕生活をするか、その二つの道の岐路に立ったのだ、と説明した。そして、彼は後者の道を選んだことを示した。
 その時に、生徒に問いかけてみた。人生にはいつかこのような時が来る。出世のために世の中の論理に丸め込まれるという選択をするか、出世を諦めて若い時からの矜持を維持するか、選択しなければならない時が来る。その時、どちらを選ぶだろうか。もちろん、どちらの道もOKである。その人がその時までの人生で考え、経験してきた上での選択なのだから、どちらを選んだとしても良いだろう。ただ、若い時には、俗世間の塵にまみれることなど選びはしない、と思っていたであろう人物も、いつかはその選択の時が訪れ、そしてある者はかつては忌み嫌った道を選ぶこともあるのだ。果たして、今高校生である彼らはそんな時にどんな選択をするのか。
 その時はおよそ40歳前後に訪れるのではないか。人生を考える時でもある。
 生徒は何となく、神妙な顔をして聴いていてくれた。