東京芸術座公演「十二人の怒れる男たち」鑑賞会

 午後は3年に1回の芸術鑑賞会が行われた。今年も全校生徒が近くの県民会館までえっちらおっちらと徒歩で移動する。それでも20分くらい歩くのかな。正直言って、この行き帰りの徒歩で私は疲れ果ててしまった。
 さて、今回の演目は東京芸術座の演劇「十二人の怒れる男たち」である。
http://www.tokyogeijutsuza.co.jp/
 アメリカの陪審員制度をモチーフとして、一人の少年による父親殺害事件を12人の市民が陪審員となって裁く、その陪審員の会議の有様を1時間45分の劇として表現したものである。誰しもがその少年の犯行だと思われ、有罪評決が出て、死刑が確定すると思われた事件であった。しかし、12人全員一致が原則の中で、たった1人が異議を申し立て、その意義を巡って話し合い、いがみ合い、論議していくうちに、少しずつ彼らの考えが変わっていく。最終的には全員が無罪と一致して評決し、話は終わるのだ。
 まず、この劇は舞台転回ということが一度もない。約2時間の間、ずっと舞台は評決の場となった陪審員控え室だ。そこを舞台に、12人の男たちが意見を述べ合い、時に批判し合い、いがみ合い、各自の考えの背景が明らかにされたり、取っ組み合いのけんか寸前まで行ったりしながら、一人また一人と意見が変わっていく。そのドラマの目まぐるしい展開のおかげで、舞台がずっと変わらなかったことなど意識に上らないほどに舞台上の出来事に吸い込まれていった。いやぁ、これは想像を遙かに超えた満足度であった。毎回この芸術鑑賞会は、こちらの期待を裏切って素晴らしいものを見させてもらうが、今回は特に素晴らしかった。6年前の「ベニスの商人」も素晴らしかったが、今回のものは特筆ものだ。
 途中、一人の男が明らかな人種差別発言、スラム街蔑視の発言をする。彼の心の底にある、人種差別の考えが暴露される場面だが、その時、メンバー全員が意見の相違を越えて彼をにらみつける。アメリカで人種差別がいかにタブー視されているかを如実に示す場面だ。だが、日本人が演じる日本での公演においては、その場面はやや唐突に感じられた。逆に、それだけアメリカにとっての人種差別の重さを理解させる場面ではある。
 最後の場面で、一貫してこの評決に際し疑義を申し立てていた男に、最初に賛同した男が名前を名乗り、彼の名前を聞く。実はこの時、初めてこのドラマにおいて固有名詞としての名前が現れるのだ。それまで、彼らは「1番の方」「2番の方」と番号で呼ばれていた。固有名詞を消すことは、その人が個人ではなく市民を代表しての意見を述べることを要求する上で大切なことである。しかし、ある意見は個人としてでない限り述べることはできないのではないか。固有名詞を持った個人として振る舞うことが、その人に信念と揺るぎない意見を与える。そんなことを最後の場面では思わせられた。
 いやぁ、良い演劇だった。演劇という芸術の力をまざまざと見せつけられる。3年に1度という開催時期の是非は論じるべきだが、この機会が与えられることは素晴らしいことだ。