結局、狙いと方法が一致しないんだな

 金曜日は来週行われる体育祭の代休日であった。と同時に、大学院の研究指導が午後からある。その準備に、午前中は(というか夜中から)忙殺された。はい、ちゃんと「宿題」があるんです。この年になって宿題に追われるようになるとは思わなかった。でも、そうした宿題でもなければ、仕事をしながら研究をしようなどということはできないかもしれない。だから、非常にありがたいことだと思っている。
 研究指導は公刊されている博士論文を読み、それについてレポートをするというものである。今読んでいるのは、私のマップ指導の基本文献といえる『語彙力と読書』(塚田泰彦著)である。
 しかし、結果からいうと、私は全く勘違いをしていたことが明らかになった。というより、ちゃんとそのように指導され、指示されていたのに、私はそれを守らなかった、ということである。指導してくださっている先生は私に「博士論文の構成や手法、論の運び方を見て、まとめてくること」を課題としておられた。しかし私は本の内容をまとめてしまったのだ。
 うーむ、そういえばそうだよねぇ。確かに今回の本は私のマップ指導と深い関わりのある本ではあるが、そして「読解」と「読書」の乖離という問題や「読書」という読みの指導があることに気づかせてくれたりして、ついつい内容の理解に意識がいってしまったのだ。また、先生から上記のような指導を受けていたのに、何しろそれから1か月以上経ってしまったからね。
 先生はそのことを指摘してくださり、博士論文を読むことの意義をもう一度教えてくださった。うーむ、やはり人間は対面で教えてもらわない限り、自分の間違いに気づかないもののようである。
 次の課題もいただいた。今度は、この宿題が自分のためであることをしっかり自覚して取り組まねば。
 その後で、修士の大学院生のゼミに参入させていただいた。その場所で、今取り組んでいる「羅生門」をグループで読む授業について報告し、意見をいただいた。ここでもまた、私の取り組みの甘さが露呈されることになる。
 私は、今回の授業の目的として「生徒自身が自分で問いを立てるようになること」を挙げている。様々な読みの方法を経験すること、そして生徒が自分で問いを立てる力を育てることが重要な点である。しかし、私は生徒に読みを立てることを要求していながら、自分で「質問例」をプリントにして与え、さらにその解答例まで与えている。実は、一連の学習の終わりに、教科書傍用ワークをプリントにして与えようとまで思っていた。それらはすべてテスト対策である。今回の授業は教師主導の形はできるだけ押さえているため、それでは不安に思うであろう生徒の負担軽減のためにこれらの質問例やらプリントやらを与えている。当然のことながら、それは授業の目的である「生徒自身が自分で問いを立てるようになること」を自分自身で否定している授業になってしまっている。
 うーむ、これまた自分の甘さを深く感じさせることになってしまった。この授業の構想を立てていた時は、生徒が自分で問いを立てることも狙い、さらに質問例を与えることで不安の解消も狙ったものだった。だが、それが目的と方法の不一致を招いてしまったのだ。
 やはりこういうことも、人から言ってもらわないと気づかないものだ。自分では、自分のやり方には一応一貫した理由があると思っている。しかし、当事者にはその矛盾点が分からなくなってしまうことがある。他人の目の重要さを、今更ながら気づかされた。