「管鮑之交」の授業

 2組での授業。授業の最初に、本文の最後の部分「世人管仲の賢なるを多とせずして、鮑叔の能く人を知るを多とするなり」を黒板の一番左側に板書し、今日はこの意味を理解するのが目的である、と宣言する。事実、この話は管仲と鮑叔の違いを理解するのが大切だ。その上で、人々がどちらを評価したのか、またその理由を考えさせ、さらに自分自身はこのことについてどう思うかについても考えさせたい。世人は鮑叔の人格者たることを評価したわけだが、何故そうだったのか、管仲の有能な政治家としての手腕は何故評価されないのか、また、この評価は司馬遷自身の特質によるのか、などなど考えさせることはさまざまにある。
 しかし、残念ながら今日の授業は口語訳を終えるのに精一杯であった。できるだけ最後の一文の意味を考えさせる時間を多く持とうと思っていたのだが、そのために句法の説明はあまりすまいと思っていたのだが、受身形の重要なパターンが2つも続けて出てくれば、いやでも説明せざるを得ない。ということで、口語訳を何とか終え、「管鮑の交わり」という故事成語であるが、二人の態度のずいぶんな違いについてまとめたところで終わってしまった。うーん、残念。次の時間にまた上記の問題を蒸し返すのは難しいだろうな。何しろ次の時間は来週になってしまうし、その間に体育祭があるので、今日の授業のことは頭から飛んでしまうだろうしね。
 昨日の教育実習生の研究授業の後の合評会でも話題になったことだが、授業の目的が古典の面白さを味わわせたいということならば、文法やらの説明は二の次にして兼好の美意識の特徴などをもっと大きく扱うべきだ、というアドバイスがあった。同じことが私の授業にも言えるね。「管鮑之交」という文章を通じて人間のあり方について、為政者のあり方について考えさせたいのならば、そのように授業を構成すべきである。「二兎を追う者は一兎をも得ず」。私自身も反省させられた。まだまだ若い。やはり、合評会はいいねぇ。