論語の授業

 4組と9組での授業。4組は前回にようやく木曾の最期を終え、漢文は読み方を教えただけだった。今日は、まずは音読からスタート。たとえどんなにのこり時間がせっぱ詰まっていても、最初の音読だけは欠かすことができない。何しろ、文章に生徒自身が初めて触れる瞬間だ。この瞬間をないがしろにしては、結局文章を読む意味がない。テスト対策として早く内容に進みたいのは山々だけれども、何しろ我々は言語の教育を担っているのである。言葉に触れさせなくては存在意味がない。
 とは言ってみるものの、生徒に口語訳をさせたのがやや時間がかかったせいか、予定していた学問3編は教えきれなかった。最後の「不憤不啓」の文章が最初の説明だけで時間切れだった。うーん、残り5編。あと2時間で終わらせられるだろうか。
 9組は相変わらず快調に進む。こちらは生徒に口語訳をさせても、まあまあ一通りの訳はできる。ちょっと4組生徒の古典に対する取り組みが他よりも遅れているのだろうか。このあたりは面白い所である。同じように教えているのにね、なぜ吸収の程度に差があるのだろう。
 ということで、9組は今日で試験範囲を終えてしまった。残り1時間。一応、他の先生向けへ売りに出すけれど、買い手がつかない場合、何をしようかな。たまにはじっくり言葉に触れさせたいものだ。
 国語の授業は、基本的に言葉が勝負である。言葉と出会い、言葉によって考え、言葉を通して表現する。その繰り返しだ。古典の場合は、さらに新しい言葉(古い言葉?)を読み味わうことになる。しかし、一般的な国語の授業は、そうした言葉に触れることが少ないのではないだろうか。教師の板書を書き写すという、言葉の記録性のみがクローズアップされているように思う。もっと、言葉の伝達性やら解析力、思考力などの面でも、どんどん言葉を使いたいものだ。