きれいな板書がいいのかなぁ

 今日は現代文の授業が2コマ。その後、臨時の全校集会、そして学年集会。学年集会ではセンター試験の願書の書き方や出願の仕方を説明する。いよいよそんな時期になったのだねぇ。センター試験まであと何日なのかな? 来年の1月20日・21日だけれど。
 昨日来た生徒は、やるべきことが多くてそろそろいっぱいいっぱいになっている様子だった。それに引き替え私のクラスは、ある生徒はまだまだ余裕の顔をしている。要するにあまり勉強をしていないのではないか。うーん、この差はいったいなんだろう?

[現代文]

 9組と7組での授業。授業が再開されて1週間、やっとこのクラスで授業があった。ちょっとひどいよね。
 2クラスとも村上陽一郎の評論を、記号や傍線を引きながら読み解くという作業をさせる。生徒は何となくつまらなさそうだ。中には居眠りしているものもいる。うーん、もう少し仕掛けてやらないと乗ってこないかなぁ。次の段階では多少は乗ってくると思うのだけれど。
 というわけで、私の現代文の授業はあまり板書をしない。生徒が自力で文章を読んでいく時間を確保するために、私の説明が少なくなっているからだ。もちろん、最小限のまとめはしますけどね。生徒にやらせっぱなしにしていては、彼らも自らの読みが正しいのかどうか確認できない。
 同僚の授業が終わったあとの板書を少し見ることができた。お二人のものを見たが、どちらも丁寧にまとまっていたし、工夫の跡が見られる。もちろんそれはいい。おそらく、生徒の理解も進むだろう。
 しかし、私としてはそれを生徒自身にやらせたいのだな。教員が汗水流してきれいにまとめてもどうしようもないだろう。生徒自身が文章の構造を理解し、そこから必要な部分を読解し、そしてそれを使って問いに対する答えを構成していく、それを生徒自身がやらなければ、本当の国語の力が身に付いたとは言えないのではないか。
 というわけで、私の板書はかなりアバウトです。決してさぼっているのではありませんよ。誤解しないでね。