良秀は現実主義者だと思うのだが……

 古典は今日から「絵仏師良秀」に入る。今日は8組と10組での授業があった。どちらもほぼ同じスタートであり、大体同じところまで口語訳を進めた。
 まずは読みの練習。そして「けり」「たり」を見つけて丸で囲ませる。次に「をにがどば」を見つけ、これは四角または色を変えて囲ませる。前回の「児のそら寝」でやったことは、まずは繰り返させなければね。事実、「をにがどば」の箇所で主語が変わることがこの文章でも多い。そして、口語訳をさせると、「けり」をちゃんと「〜た」と変換しないで訳す者が多い。このあたりはきちんとさせなければ。次に、文を短く区切って、口語訳をさせていった。
 今回、「絵仏師良秀」を予習していて思ったのだが、彼は現実主義なのだと思った。彼が依頼されていた仏画や妻子を顧みずに、自分の家が炎に包まれていくのを見つめているのは、この炎を観察することによって不動尊の炎の描写に生かし、そうして立派な仏画を完成させることによって、仏の功徳を得ようと考えているのではないか。つまり、仏の功徳を得る当てがあるから、当面の仏画や妻子は顧みないのではないだろうか。ある意味、貨幣経済が発達してきた中世において台頭してきた現実主義の、彼は申し子ではないだろうか。
 こう考えると、芥川の「地獄変」との対比が明確になる。芥川は「地獄変」において、良秀を芸術至上主義者として描いた。だから彼は、芸術作品としての仏画を完成させたあと、自殺するのである。しかし、原話であるこの「絵仏師良秀」は、現実主義者としての良秀を描いていると思う。
 この考えは、我々が使っている第一学習社の指導書に書かれている記述を大いに踏まえている。しかし、良秀が現実主義者だと後の「考察」には書かれているのに、本文の解説の中で良秀が人々をあざ笑った理由として「彼の芸術を人々が理解しないから」と解説しているのは納得がいかないなぁ。芸術への無理解をあざ笑うことは芸術至上主義の考え方ではないかなぁ。