中学から高校へ

 今日は土曜日だが、2つの用事があって学校へ行く。その1つは、16日に迫った卒業式での生徒代表答辞の原稿をチェックするためだ。10時に約束をしておいたので、結局午前中から出かけていく。もう1つの用事は午後からなので、もっと遅くから出番だったのだが、彼との約束だから仕方あるまい。
 答辞を読む生徒は生徒会長である。この生徒は自分自身の考えをきちんと持っている、非常に優秀な人物である。よって、彼が書いてきた文章の原稿はなるべくいじらないでおきたい。その方が彼らしさが出て良いと思うからだ。
 書いてきた原稿を読むのはこれで3回目である。私の意見を取り入入れつつ、自分自身の考えを率直に述べている、良い文章だ。こうした生徒にありがちなのだが、やや抽象的すぎる文章の運びではある。しかし、この抽象的語彙の連続がまた彼らしいので、どの程度具体性を持たせるか悩みどころである。とはいえ、文章の流れからさすがに聞いている者が理解しづらい部分には具体例を入れるようアドバイスした。彼はそれを取り入れてくれるようである。最初の勢いだけで書いた文章から、少し落ち着いてはしまったが、彼らしい迷いと決意とが表れている良い文章になった。少々長すぎるかな、というところが懸念材料だが、まあ良いだろう。当日ではきっと素晴らしい当時をしてくれるはずだ。期待している。
 このような表現指導の場合、私と1対1で話をするわけだが、私は生徒の能力を信じつつ、そして生徒の文章の勢いをできるだけ弱めまいとしつつ、文章の流れを整える作業に徹する。やはり文章作成は協同で行うものなのだな、と実感する。教師対生徒という関係ではなく、生徒同士でこれができればもっと良いだろう。直してもらう生徒は文章が良くなるし、直す生徒は文章の書き方についてさらに強化される。文章は、書くことがもちろん大切だが、書かれたものを直すことによっても書く力を伸ばすことができる。メタ認知能力を鍛えることになるのかな。こうしたことが保証される授業のあり方が必要なのだろうね。
 この生徒は、中学校の卒業式でも答辞を読んだそうである。その時も彼らしい言葉で語ったそうだが、やはり高校での答辞は違う、とのことだ。彼は2年生の時にあまり忙しくなく、その時に自分自身についてじっくり考えたのだそうだ。それがとても良かったとのこと。内省の力だね。自己について深く内省する者は、自らの歩みにおいてブレることのない力を持つことができるだろう。高校生の3年間が、彼にとってもはやり大きな意味を持っていたことを、卒業を間近に控えた今、とても嬉しく思う。