「須磨」の授業

 7組と8組での授業。金曜日に引き続き、「須磨」を読み進めている。今日は2箇所において生徒の解釈力を試すところがあったので、それで盛り上がった。
 1つは源氏の最初の和歌である。「恋ひわびて泣く音にまがふ浦波は思ふ方より風や吹くらむ」の「思ふ方」をどう解釈するかということだ。誰が誰を「思ふ」のか、そこに2通りの解釈ができると思っている。1つは「源氏自身が恋しく思う方向」というもの。もう1つは「京に残された人が源氏を恋しく思っている方向」というものである。指導書では1つ目の「私が恋しく思う方向」であると断定している。まあ、別解釈として「私を恋しく思ってくれる方向」というものも併記しているが。どうなのかなぁ。私は両方あり得ると思っている。両方ともこの歌の解釈を広げるのに役立っているからだ。私が見た限りの解説書でも2通りの解釈があった。そこで、緊急アンケートと称して、2つのクラスで生徒にどちらの解釈を支持するか手を挙げさせてみた。生徒の解釈は1番目の「私が…」の方が多数であった。OK。それで良し。でも、両方があり得るのではないか、と私は説明した。
 2つ目はそのすぐ後に続く文である。「とうたひたまへるに、人々おどろきて」と続く文で、「うたひたまへる」をどう解釈するかということだ。1つは「お詠みになると」である。もう1つは「お歌いになると」である。どちらがこの場面にふさわしい解釈か。これまた緊急アンケートで、生徒に手を挙げさせた。おもしろいことに、これまた2つのクラスとも「お詠みになると」という解釈が多数派であった。ブッブー。これはペケである。まず「お詠みになると」という解釈は「和歌を声を出して詠む」という意味もあるが、「和歌を紙に書き付ける」という意味にもとれる表現である。一方、「お歌いになると」は「和歌を声を出して歌う」という意味にしかとれない。さて、本文にはすぐ次に「人々おどろきて」と続く。この「おどろきて」は「目をさまして」と解釈すべきである。人々が目をさますためには、源氏が声に出して和歌を詠わないといけないだろう。そこで、ここでの妥当な解釈は「声に出してお歌いになると」であると考える。
 古文の解釈とは文脈に応じていくつかの語意から場面にふさわしいものを選んでいかなければならないことが多い。また、それが古文の解釈力である。これを鍛えるためには、生徒に2通りの解釈を示して、どちらがこの場面においてより妥当か、と問うてみることが必要なのではないだろうか。私は授業中において、時々この手法を用いる。
 私の持論の一つ、「古文解釈はロジックである」の実例であると思う。古文は決してフィーリングで訳すべきものではないのだよ。