「柏木」の授業

 7組、8組での授業。どちらもほぼ同じ箇所からスタートしたので、同じ内容の授業となった。
 数研出版の「古典」の教科書では「柏木」は6段落で構成されている。その各段落での場面を調べてみると、

  1. 女三の宮の部屋へ源氏が訪れる:源氏と女三の宮のみ
  2. 女房たちがいる所へ源氏が現れる:源氏と女房たち
  3. そこへ、女三の宮が姿を現す:源氏と女三の宮と女房たち
  4. 同場面で、源氏が若君(薫)に対して思う
  5. 同場面で、源氏が亡き柏木に対して思う
  6. 女房たちが去り、再び源氏が女三の宮に恨み言を言う:源氏と女三の宮のみ

というきれいな場面構成がされていることが分かった。さすがは紫式部。場面とそこでの登場人物、そして彼らの心情の変化を実に丁寧に、綿密に描いている。教材研究していて、ちょっと感動した。
 この事を今日の授業の冒頭に少しだけ生徒に示す。本当は生徒自身にこの段落構成を見つけて欲しいのだ。しかし、私は本文の全体像を把握しているが、彼らはまだ全体の展望を持ち得ないだろう。そこで、これから訳出しようとする段落に関する部分だけ紹介し、紫式部の段落構成意識について少し説明した。古典であっても段落構成(=場面構成)に対する意識を持つことは重要である。それを意識させる、よい教材になりそうだ。もっとも、この段落は研究者によって段落分けされているのであり、原作は段落分けなどしていないだろうけれどね。
ー*ー ー*ー ー*ー
 今日の授業では、場面の理解をできるだけ具体的に想像して読み取る、ということを意識した。内容は若君の五十日の祝いを準備する女房たちの所へ源氏が現れる場面と、そこへ女三の宮が姿を現す場面である。その場所はどんな場所なのかを、寝殿造りの平面図イラストを黒板に描いて説明した。「南面」と本文には書いてあるので、彼らが寝殿にいること、そして、女三の宮が北の対に住んでいること、よって彼女は正妻の地位を得ていること、さらに紫の上は「対の上」と呼ばれ、生涯ついに正妻とはされなかったことなどを説明した。でも、六条院の春の都ではどうだったのかな? 女三の宮が降下する前に、紫の上はやはり「対の上」だったのだろうか?
 さらに女三の宮の尼姿が本文では描写される。彼女は髪を申し訳程度に少し切っただけで、まだまだ長い髪をしていた。しかし、額髪だけは額で切りそろえていたのだろう。これらのことを本文を読み取った後で、実物で説明する。つまり、私の頭を使って説明したのである。しかし、残念ながら私の頭は少々(かなり)薄くなっている。しかも、最近短く刈ったので、「長い髪」の説明をするにはきわめて不適切な実物である。それでも、その頭を使って必死になって説明する。うーん、生徒諸君。想像力をたくましくしてください。
 次に彼女の体型についてである。女三の宮は小柄でほっそりとしているという描写がある。その「細りたまひ」てしまった理由として、彼女が心労のため憔悴していることを説明しようとした。ここで口走ってしまったのが我が愚妻のことである。私の奥さんもまた小柄である。しかし彼女は太……、いやいやふくよかであらせられる(危ない危ない)。私の奥さんをダイエットさせるよい方法は……、と言いながら女三の宮の細ってしまった理由について説明した。
 いやはや、教師は自らを切り刻みながら授業をするものである。使えるものなら何だって使ってやるぜ。

『考えあう技術 ー教育と社会を哲学する』

考えあう技術 (ちくま新書)

考えあう技術 (ちくま新書)

 やっと読み終えた。あまりに重要なことが次から次へと出てくるので、大事に大事に読んでいたらいつ読み終えるか分からなくなりそうだったので、最後の方はビッチを上げて読み終えた。本当に私は読書スピードが遅い。速読法をもっと鍛えないとなぁ。
 とにかくこの本は凄い! 教えることの意味、教育の目的について哲学的に原点にまで立ち返って、その上で教育の目的について考え直し、提案している。その言葉の数々に終始圧倒されっぱなしだった。
 教育について考えるためには、この本が原点となろう。もう一度開き直して、内容をまとめ直さないといけないな。今年の読書の最大級の成果だ。

『ツバサ』という物語を一文で表すと……

 物語の読解方法の一つに、その物語を一文で言い表す、というのがある。「○○が……する物語」とか「○○が……になる物語」という一文で言い表すのだ。これをすると、物語の全体をとらえるだけでなく、物語の主題を自分なりに捉えるよい訓練になる。
 そこで、『ツバサ』を一文で表現してみるならば、それは「さくらが小狼に愛を告白する物語」となるだろう。より正確に言うならば、「小狼への愛を告白しようとしていたのに、以前の記憶を失ってしまったさくらが、様々な紆余曲折を経て、小狼に愛を告白する物語」である。
 周知の通り、『ツバサ』は冒頭でさくらが小狼に愛を告白しようとして空振りに終わるところから始まる。そして、さくらは「次に会った時に、今言おうとしたことを必ず言うから」と告げて小狼と別れる。しかし、その次に彼らが会った時に、さくらは記憶を失ってしまうのだ。この冒頭場面から、読者は容易に、最終場面においてこのさくらの約束が実現するのだろう、と予想できる。
 しかし、その後の展開はもうこちらの予想を遙かに超えるものだった。だいたい、途中で主人公が入れ替わるなんて、しかも、彼らが本体を写した写し身だったなんて、当初のパラレル・ワールド探訪記的なストーリー展開からはどうやって想像することができようか。そういう予想外の展開の連続が『ツバサ』という物語の真骨頂である。
 そして、その物語の最終場面において、それでもやはり当初の想像通り、さくらは小狼に愛を告白する。このまとめ方はなかなか憎いところである。
 ふと思いついたが、小狼やさくらの同じ存在である『カードキャブターさくら』という物語も、「さくらが小狼に愛を告白する物語」であった。その意味では、二つの作品はやはり通底するものがあると言えるだろう。