読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

さあ、挑戦だ

f:id:beulah:20170424152519j:plain
 本学の新1号館の1、2階に作られた新図書館が本日、オープンした。上の写真は、その顔とでもいうべきコーナーである。ここでは、館内で唯一飲食ができるコーナーである。私が学生なら、間違いなくここに入り浸るなぁ。他にも、蔵書が本学の分野に合わせた形で集中的に配備されているし、絵本の部屋はあるし、2階にはラーニング・コモンズがある。こうして形はできあがって、中身や使い方はまだまだこれから手探りで行くのだろうが、それも楽しみな場所ができあがった。さすがに、力を入れて作っただけはある。今日のゼミの時間は、学生をここに連れてきた。彼らも喜んでいた。
f:id:beulah:20170424153443j:plain
 図書館を見て回った後、少し屋外を散歩した。新潟市は今日はうららかに晴れ上がり、気持ちの良い午後であった。歩いて行く道の途中の家の庭先にチューリップが群生していた。いいねぇ。
 さて、明日の新潟中央短大の授業では、いよいよライティング・ワークショップが本格的に始まる。学生たちに短編物語の創作をさせるのだ。リレー物語は、いわば「場」の文芸である。場に集う仲間の総合的な創意が形になる文芸である。しかし、今度からは個人の創作作業がメインになる。もちろん、仲間で相談することは推奨するのだが、1つの作品の責任はその作者一人が負うことになる。果たして学生たちはどれくらい乗ってきてくれるだろうか? 私としては、考えられる限りのファシリテート策を用意したつもりだ。後は、彼らの創作意欲を信じて任せるしかない。さあ、挑戦だ!

リレー物語が大好評

 前期はライティング・ワークショップを2箇所で実践している。非常勤で教えている新潟中央短大での国語表現法と、本学の通年の授業である教養I(国語)において、である。中央短大の方は90分、本学の方は45分授業というように形態の違いがある。しかし、スタート当初は同様の内容を扱うことになる。もちろん、時間の差を埋めるべく工夫はしているけれどね。
 今週の授業は、2つとも「リレー物語」を行った。リレー物語とはすでにいくつか実践のあるもので、以下のように行う。

  1. 用紙を、8人で一筆書きの要領でグルグル回すよう、回し方の練習をしておく
  2. 用紙の最初の枠に、物語の出だしを書く
  3. 次の人に用紙を渡す
  4. 自分のところに回ってきた用紙に、前の人が書いた物語の続きを書く
  5. また次の人にその用紙を渡す
  6. これを次々に8回繰り返す
  7. 物語が完結したら、逆回転で用紙を戻し、自分が書き出した物語の完結を楽しむ

 用紙をリレーでのバトンのように次々と人に渡し、物語を書き継いでいくのである。最初に自分が書き出した物語が、次々と別の人が書き継いでいく中で、予想を超えて変容していくのが面白いものである。
 私は、この実践をPCのメールを使って行ったことがある。しかし、この際は物語は一応完成するものの、「物語の構造」を意識させなかったために、面白みの欠ける作品しかできなかった。そこで、今回の授業では、物語の構造を常に確認させながら書き継がせさせた。具体的には以下のとおりである。

 第1回 導入(1) 人物の登場
 第2回 導入(2) 人物の詳しい紹介
 第3回 展開(1) 第2の人物との出会い
 第4回 展開(2) 第2の人物の詳しい紹介
 第5回 山場(1) 事件の進展
 第6回 山場(2) 事件の核心へ
 第7回 クライマックス 人物たちの関係の決定
 第8回 終結   事件の終わり

 この構造を毎回意識させながら、物語を書き継がせ、リレーさせていった。
 8回まで書き終え、逆回転させて自分が書き出した物語の結末を読ませる。学生は、書き継いでいる最中から歓声を上げたり、意外性に感嘆したりと、声を上げていたのだが、いざ完成された物語を読むと、その歓声はもう頂点に達する。これは中央短大だろうと本学だろうと、まったく同じ反応である。中央短大の場合は2回戦を行ったが、本学は1回戦で終わり。
 いやぁ、学生は乗ってくれるだろうと予想はしていたが、予想通りの反応を示してくれてよかった。学生は楽しんでくれたようだ。このリレー物語を機に、創作における物語の構造の重要さを理解し、創作への意欲を持ってもらいたいものだ。

アクティヴ講義室での授業

f:id:beulah:20170414155834j:plain
 授業開始2日目。今日は1年生の教養Ⅰ(国語)と2年生の言葉指導法Ⅱがあった。教養Ⅰ(国語)は昨年までの授業を大改革して、ライティング・ワークショップを全面的に行うことにした。こちらは大きな出来事なのだが、今日はもう1つの授業のことで「なるほどな」と思ったことがある。
 それは、2年生の授業のことである。言葉指導法Ⅱは3クラスある。昨日は2クラスがあったが、今日の4限は残り1クラスの授業があった。新校舎の2階にはアクティヴ講義室というものがある。上の写真の部屋がそれである。従来の講義室のように、机が縦列に並んで配置されているのではなく、写真のようにアイランド状に配置された講義室だ。私は実は、3クラスともこうした形の部屋を希望したのだが、この講義室は人気らしく、当たったのは金曜の4限という、授業者にとっても学生にとってもヘトヘトな時間帯の授業1つだけだった。それでも、きっと使い勝手のよい、楽しい授業になるだろうと期待して臨んだのだった。ところが、期待に反してずいぶんダメダメな授業になってしまった。
 原因は何だろうと授業をしながらいろいろ考えていたのだが、1つ気づいたことは、こうした講義室の形態と今日の授業の内容とのミスマッチが原因ではないか、ということだ。今日の授業は、昨日の2クラスも同様に、説明が主体のものであった。今後の授業全体の説明をした後は、幼稚園教育要領と保育所保育指針の中の領域「言葉」の内容を確認していく、という内容だった。1コマの中でとにかく内容を押さえておこうとするものだったから、いきおい私の解説ばかりが続くことになる。その中で、学生たちはアイランド状に配置された机に座り、スクリーンに映し出される解説のスライドを、体を後ろにひねりながら見なければならない。疲れて前に体を戻せば、そこには親しい友人の顔が見える。ということで、次第次第に私語が始まり、それが抑えきれないレベルにまで達してしまったのだ。うーむ、これは学びの場の形状と学びの内容とがミスマッチしたのだな、と考えた。
 アクティヴ・ラーニングがかまびすしい昨今、こうした形状の講義室を備える学校も今後は多く出てくるだろう。しかし、こうした学生同士が顔をつきあわせる場において、今までの講義中心の授業はとうてい成り立たないことがよくわかった。今回のような内容の授業を行うのならば、この部屋の机は真ん中から切り離して、長机に変形することができるのだが、そうするべきだったのだね。
 立派な部屋だが、それにふさわしい内容の授業が必要だ、ということだ。または、授業の内容を踏まえて、机の形状を変形すべきだ、ということもわかった。これも、教授方法の実践知の1つである。

授業開始!

f:id:beulah:20170413115932j:plain
(新1号館の、4階から吹き抜けを見下ろす。)

 今日から本学も授業が開始された。授業には、新1号館の教室が使用される。ついに新築の新1号館が「グランド・オープン」の日を迎えた、ということだ。上の写真は、昼休みになった時に、4階から吹き抜けを見下ろして撮ったものである。学生たちは吹き抜けの周りのテーブルや、その近くにあるテーブルなどに座り、昼食をとっている。こうして、新しい校舎に学生たちの姿が見えるのは、とても絵になって良いね。
 写真の底面に見えるところは「ラーニングコート」という場所で、柔らかい素材のソファなどがある。ただし、この場所は飲食禁止であるため、昼食時には学生の姿が見えないわけだ。2階はカーペットが敷いてある箇所が多く、そのために2階全フロアは飲食禁止である。このラーニングコートは床暖房が入っていて、冬場でも暖かく過ごすことができる。学生たちの良いたむろ場になるだろうが、昼食時にはなるほど閑散とするなぁ。
 この新1号館は主に短大の授業が行われる。私も本日、1、2限と授業が早速入っていたため、この新1号館の教室で授業を行った。綺麗な机に綺麗な椅子、写りの良いプロジェクターにKeynoteのスライドを写して、授業のオリエンテーションを行う。1、2限は言葉指導法Ⅱである。この授業では、主に様々な児童文化財の扱い方を体験することを内容とする。さらに、iPadを保育の場に活用する体験もさせる。この中から、iPadの保育における新たな活用の方法を見出したいと思う。こうした内容の授業であるため、今日の感じでは配属された教室はやや手狭かもしれない。積極的に外に出て行こうと思う。せっかくあるラーニングコートやプレゼンサークルなどが空いていたらそこを舞台として授業をしたり、保育実践演習室を借りて授業をして行こう。せっかくの器だ。使ってあげなければもったいない。
f:id:beulah:20170413120235j:plain

 上の写真は、私の研究室のある3号館の玄関横に咲く桜である。新潟市は桜が満開だ。昨日、今朝と新潟市はとても寒かった。先週は、歩いて大学に行く際には暑くて、コートなどいらないくらいだったのだが、昨日・今日としっかりコートを着て通勤している。しかし、春は着実に歩みを進めている。今朝、少し降った雨もすっかり上がり、昼時には暖かな陽光が降り注いで、桜は律儀に綺麗な花を咲かせた。その律儀さに免じて、天候が桜の花にとってもう少し優しいものであってほしいものだ。

オリエンテーション終了

f:id:beulah:20170412135321j:plain
(本学の新1号館内部。なかなかきれいでしょ?)

 5日から始まったオリエンテーションも今日で終わり。今時、こんなに丁寧に、時間をかけてオリエンテーションを行う大学・短大も珍しいのかもしれない。土日を挟んでいるし、間に1日お休みがあるとはいえ、今日でオリエンテーションの全内容を終えた。まあ、最初の頃は、どんなに懇切丁寧に説明をされても、実際に授業が始まって見なければわからない、というところがある。それでも、事前に説明を受けておくことは必要なことだろう。
 今日は、午前中に1年生のゼミのミーティングがあり、2年生の代表2名が旧校舎を中心に学内を案内した。今回は、新1号館が完成したのだが、旧校舎にも学生に関係のある部署がまだ残っている。そこで、それらの場所と機能の説明を、2年生が自分たちの経験を踏まえながら説明した。1年生のゼミ員と初めて顔を合わせる場でもある。新しいメンバーを迎えて、いろいろと楽しみなところである。
 午後は1年生と2年生のゼミ員合同によるゼミの顔合わせを行なった。本学の幼児教育学科は、これまでは1年生にゼミを置いていなかった。しかし、初年次教育の充実と、学生の交流の深まりを求めて、今年度から1年生にゼミを設けた。このゼミ員と、従来からある2年生のゼミとの合同顔合わせ、第1回のゼミを行なった。私のゼミを選んでくれた2年生と、私のゼミに配属された1年生とが自己紹介をしてくれた。昨日のゼミ決めの場に、私は立ち会うことができなかったのだが、すでに2年生はゼミ長が決まっており、自己紹介の最中に副ゼミ長も決まったようだ。自主的に動いてくれる2年生に、とても頼もしい思いがする。
 ゼミの後半、1、2年生全員を連れて、新築なった新1号館の見学に行った。何しろ明日から授業で使うというのに、まだ内部に入った学生はそんなに多くはないだろう。また、どの部屋がどこにあるのかということも、やはり説明されなければわからないだろう。そこで、私が添乗員を務めて、新1号館の内覧ツアーを行ったわけだ。最初の写真は、内部の吹き抜けを、2階から見上げたところ。吹き抜け空間が、階が上がるごとに広くなっており、上から下を見下ろすと全てのフロアーを見ることができるようになっている。この吹き抜けには、テーブルが周囲を回るように取り付けられている。上から見ると、テーブルに座って勉強していたり、話をしたりしている学生たちの姿を見ることができるわけだ。この、学生の姿を間近に感じることのできる構造は、とても良いと思う。「共に学ぶ」という姿を体現している。
 下の写真は、吹き抜け底部にある、2階のラーニング・コートの部分。ここで談笑もできるし、足を伸ばすこともできる。授業にも、使おうと思えば使える。実際、ここで授業をしてみたいね。
f:id:beulah:20170412135355j:plain
f:id:beulah:20170412135345j:plain
 私は、学ぶ「場」はとても大事だと考えている。学びの場の形は、その学びの内容を決定するし、どのような学びをさせるかによって、学びの場は形を変える。この新1号館は、学生同士がお互いに関わりながら学ぶという形を取りやすいように設計されていると思う。とても良い。明日からここでの学びがスタートする。器に負けない、楽しい学びを展開していきたい。

授業準備の狭間で

f:id:beulah:20170410152425j:plain

 上の写真は研究室から見た桜である。今日の新潟市は朝からとても良い天気だ。そのせいか、昨日までは寒い中で縮こまっていた桜も、そろそろ羽を伸ばしたかのようだ。ほぼ満開に近い。昨日あたりが見頃だったかなぁ? 残念ながら、とても寒かったけれど。今日ならば良かったけどね。
 今日は、オリエンテーション期間中の休日である。学生はね。私は、この機会を逃すまじと、授業の準備に邁進している。明日、非常勤で教えることになった授業の第1時間目があるので、必死で準備をしていた。教える科目は「国語表現法」。本学でも、私は国語関連の授業を担当しているが、こうした「国語表現法」という、その物ずばりのタイトルの授業は持っていないので、ちょっと新鮮である。とはいえ、本学で担当している「国語」の授業の内容をかなり応用できる。この「国語」は、どちらかといえばリーディング・ワークショップに偏った内容になっている。そこで、今回担当することになった「国語表現法」は、ライティング・ワークショップを中心とした内容にしようと考えている。
 これは、私にとってもありがたいことである。本学で担当している教養Ⅰ(国語)という授業がある。これは、今までは漢字や日本語文法や敬語、手紙の書き方などの内容を扱ってきた。しかし、今年度からこの授業を、ライティング・ワークショップを中心としたものに変えようと考えている。非常勤で担当することになった「国語表現法」は、この教養Ⅰ(国語)の前哨戦とも言えるものになる。良い機会だと思う。
 ただ、「国語表現法」と「教養Ⅰ(国語)」は、授業時間の設定がかなり異なる。この授業形態の違い(時間配当の違い)が学生の能力養成にどう影響するか、興味深く思っている。まあ、授業形態が違うのだから、全く同条件ではないし、比較研究はしづらいとは思うけれどね。
 明日からまた、オリエンテーションが再開される。明日は2年生のオリエンテーションだ。なすべきことは多く、時間だけは増えることなくどんどん過ぎていく。何とか頑張って授業に取り組むのはもちろんのこと、日々研究する時間も確保していきたいものだ。

詩人が逝く

 大岡信さんが亡くなった。4月5日のことだ。とてもショックである。
 私は教員になりたての頃、現代詩にどっぷりハマったことがある。最初に赴任した高校で、4月、1年生の教室で最初に扱った教材が茨木のり子の『詩のこころを読む」だった。この教材の最初に掲載されていた谷川俊太郎の「かなしみ」という詩にノックアウトされた。この詩の内容とよく似た感覚を、私も幼い頃から持っていたからだ。それ以来、詩の世界に俄然興味を持ち、谷川俊太郎の詩や著作を読みふけった。その流れで行けば、盟友である大岡信に行き着くのは当然のことである。大岡信の著作も、まあ読みふけった。私の場合は、彼の詩ではなく、評論物に心奪われたものだ。正岡子規によって否定されていた紀貫之を再評価した『紀貫之』や、『うたげと孤心』などは今でも内容を懐かしく思い出す。『菅原道真』など、彼は古典作品や詩人たちの真髄を描きあげるのが上手だった。私の自宅の書斎には、その頃集めた谷川俊太郎大岡信、そして「櫂」同人である茨木のり子吉野弘の著作が数多くある。この頃は独身で一人暮らしでもあったので、時間に任せて乱読したなぁ。詩歌評論の本を取っ替え引っ替えして、時間も忘れて夜中まで読んでいた。
 そうした思い出を、大岡信の名前を聞くと思い出す。大岡信谷川俊太郎は、私にとっては20代の記憶の大切な一部だ。その大岡信が亡くなった。寂しい思いが募るばかりである。茨木のり子も、吉野弘もすでに故人である。時は過ぎ去っていくのだなぁ。
 朝日新聞の記事によると、大岡信西行の「願はくは 花の下にて 春死なん」の歌が好きだったそうな。まさにその歌のごとく、桜の舞い散る時期に大岡信も逝ったという。切ないことである。