卒業生の来訪と聖書学び会

 昨日、6年前に卒業した学年のT君が来てくれた。彼は折に触れて私の所に来てくれている。今回は自身の就職の報告に来てくれたようだ。彼は大学院に進んだものの、自分が希望している職種の募集が今年度は久しぶりにあり、それに応募して見事採用されたそうだ。そのために、残念ながら大学院の方は1年で中退して、来年度から地元に戻って就職するという。学業を中断してしまうのは大変もったいないことではあるが、就職が決まったということだし、その就職先がめったに募集のない公務員のある職種のもので、来年度は募集があるかどうかわからないというものだそうだ。そこに応募して採用されたというのだから、その選択は正しいものだろうし、また慶賀すべきものであろう。いやはや、大変にめでたいことである。
 6年前の卒業生たちは、私がひとしお思い入れのある学年だ。何しろ現在の勤務校で初めて担任することのできた学年であり、しかも転勤時から3年間持ち上がりで担当することのできた学年である。彼らの成長をずっと伴走して、私自身も自分の持てる力を存分に燃焼させることができた。その、3年生で担任をしたクラスの生徒たちがこうして時々訪れてくれることは、彼らが卒業していった後の6年間をずっと暖かく照らし続けてくれたことだった。本当にありがたく、懐かしい。
 彼と20分ばかり話しただろうか。何しろ、あのときの卒業生を知っている同僚は私以外にはあと一人しかおらず、その方は残念ながら中座されていたので、私と話しただけで帰って行った。再会を願い、また今後の活躍をただ願うものである。
 そして今日は長岡の集会で聖書学び会があった。私は就職時の4年間をこの長岡の集会に所属して過ごしていた。その集会で学び会があるということで家族で出席した。実は昨日からおなかが痛く、朝方は少し頭痛もしていた。しかし、昨日よりはずっと調子が良いので、少々無理をして出かけていった。結果的に、すべてが守られて良かった。
 お二人の兄弟が午前・午後と1回ずつ、計4回の学びをしてくださった。どれもクリスチャンの信仰生活における実際的な歩みについて、聖書から学んでくださった。奇しくも、お二人とも学んだテーマは似ていた。ということは、多くの兄弟姉妹がこの問題については課題に思い、解決を模索しているのだろう。それは、「困難な時代にあって、クリスチャンはいかにしてその信仰を守り通すか」ということだ。現在は、かつてのようにクリスチャンを迫害するような社会ではない。だが、日々の生活の忙しさや自身の体力の衰えなどによって、自らの信仰生活を順調に保ち続けることが難しくなっている兄弟姉妹も多くおられる。そうした兄弟姉妹にとって、自らの信仰を堅く保ち、いかにして信仰生活を守り続けるかということは喫緊の課題である。そのことについて、お二人はともに学んでくださった。大変幸いであったと思う。
 同時に、今日のクリスチャンが抱えている課題はそれだけなのかな、という疑問も持った。こうした特別学び会において学ぶべきテーマはまだまだ他にもあるのだろうと思う。ただ、私がこうした学び会に招かれる際に、ここ最近はずっと詩篇を学んでいる。しかしこの学びも、結果的には上記と同じようなテーマに行き着く。つまり、クリスチャンがいかにしてその信仰生活を守り抜くか、ということになる。だが、それだけがクリスチャンが抱えている課題ではないのは明白だ。自分がよく学ぶことができるテーマばかりを追求するのではなく、こうしたクリスチャンにとって必要な分野の学びも、これからは意図的に、計画的に、学ばれるべきではないかなと思った。
 ともあれ、久しぶりに訪れた長岡の集会で、長岡の兄弟姉妹たちや亀田の兄弟姉妹たちなどと久しぶりに幸いな交わりを持つことができた。主に、妻がそれらの兄弟姉妹と話しているのを私がそばで聞いているという構図が多かったけれどね。なぜか今日は、妻と私とが集会所の1階の和室にいるところに兄弟姉妹たちが集まって話をする、ということが多かった。子どもたちが我々の家族だけだったからかな。また、妻の人徳かな。私自身はむしろ話を聞いている方が過ごしやすい反面、妻はいろいろと話しかけたり、話題を提供したりすることができるからね。彼女の方が人付き合いは得意なのかもしれない。