古典解釈の楽しさ

 今日の授業は3コマ。古典講読が1つ、古典が2つ。
 古典講読は『大鏡』の「道長女院詮子」を本格的に訳し始めた。この文章は人物関係とその思い入れとが交錯して、複雑である、ゆえに面白い。冒頭に、「女院は、入道殿をとりわけたてまつらせたまひて」とある。そこで生徒に、何故女院道長を格別に取り扱いなさったのかを尋ねた。その際、国語便覧の藤原氏系図と主要人物の略歴を記したページを開かせ、それを参照するようにさせた。そして、隣同士で理由を考えさせた。これは、まず疑問を持つこと、そしてその疑問を解決するのにどんな資料を使うべきかを考えること、その問題解決に適当な資料を選択して解答を導き出すこと、を狙ったものである。教師が何もかも教えてしまうのは面白くない。何か疑問を持ったら、それを調べることは、調べる方法をも含めて探索することこそが面白いところなのだ。その一番面白いところを生徒から奪ってどうする、と思ったのだ。
 もちろん、生徒はすぐには妥当な考えにはたどり着かなかった。道長の娘彰子と詮子の息子一条天皇との関係による、と生徒は答えた。悪くない。だが、それならば、通常は娘の父である道長の方から天皇の母である詮子に取り入ろうとするだろう。本文はその逆の、詮子が道長を特別に扱ったと言っているのだ。次に指名した生徒は、二人が兄弟で年が近いから、と答えた。そこで、どれくらい年が近いのか? と尋ねた。そこがおそらくこの問に対する妥当な解答にたどり着く鍵だ。生徒は分からない、と答えた。そこで私は、資料を見れば分かるよ、と促した。生徒は必死で探し始めた。それが便覧のそのページを私が先に開かせておいた意図である。そのページには主要人物たちの略歴があり、その生年が書いてある。詮子と道長の生年を見れば、二人がどういう関係にあるかが分かる。二人は4歳違いの姉弟である。つまり、考えられる答えは「お姉ちゃんが弟をかわいがったからだ」ということだ。私が想像するに、この二人は同腹の姉弟なのではないか。今調べているところである。
 その後、一条天皇が皇后定子を寵愛したことがよく分かる記述もある。これも生徒に気づかせるのに楽しい箇所である。大鏡はこうした人物関係を鑑みながら読むと、次々に発見があって楽しい。
 古典は理数科のクラスで、とうとう「御法」を終えた。紫の上の死の場面である。彼女が死を迎える流れを本文に沿ってたどった後で、『あさきゆめみし』のその場面を印刷したプリントを配り、本文との違いを生徒に考えさせた。『あさきゆめみし』は源氏物語の話の内容を手っ取り早く確認するにはもってこいの素晴らしい教材である。だが、この「御法」の場面だけは違う。原文とあまりに展開が違うのだ。そこで、「御法」においては口語訳する前にはこのプリントを配らなかった。生徒に間違ったイメージを持って欲しくなかったからだ。だが、すべてを訳し終えた今なら、逆に文字による文学作品と絵と文字から成るマンガという表現形態との違いを考えさせるのにはうってつけの教材となるだろう。生徒に考えさせ、指名したところで時間切れとなってしまった。明日、続きをやろう。