自分のプリントを整理しよう
この土日に行われた亀田の集会での特別伝道集会を終えてきた。1時間ずつ、2日間にわたり2回お話をした。導かれる方が起こされて、大変に感謝である。何と、私の母も来てくれた。少なくとも話を聞きに来てくれるのは偉大な進歩である。神様に心から感謝したい。
授業は古典の方は順調に進んでいる。10組と7組の授業があった。10組は「若紫」を終えた。全て口語訳した後で、「手に摘みていつしかも見む 紫の根に通ひける野辺の若草」の歌を生徒に紹介し、このように源氏の心に残ったのは若紫のどんな点なのかを考えさせた。3点挙げよと指示して話し合わせた。指名して確認したところ、こちらが予期していたことはちゃんと出てくれて、嬉しかった。多少誘導はしたけれどね。7組はもう1時間で同じ所を終えるだろう。次は『韓非子』より「侵官之罪」である。
現代文は8組の授業であった。本日を入れて残り3時間なのだが、質問紙調査をしたので、かなり時間が足りなくなってしまった。6意味段落に合わせて6枚の学習プリントを作成し、それに沿って授業を進めているが、いよいよ自分のプリントの設問を整理して、短時間で終えられるように調整しなければならないな。こんなものは残してみても何の得にもならない。とにかく最後まで終わることが必要だろう。後は生徒の力に頼るしかない。
それにしても、「「である」ことと「する」こと」は教材としては本当に不適切なものである。いや、本文内容がではなく、教科書編集の際の本文削除が、である。『日本の思想』収載の本文を読んでいるけれど、こちらの方がはるかに分かりやすいし、またこれが一時代前の内容を扱った文章であることもよく分かる。それならそれで対処のしようがあるわけで、一時代前であること自体には問題がない。問題はこれから時代的な例や教科書として不適切(どこがだ?)な箇所をばっさり削除して、勝手に小見出しを付けることによって、原文の文脈がずたずたにされている点である。これを「論理的」文章として読ませることの無謀さである。おかげで教員がどれだけ苦労することか。これなら原文そのままを生徒に読ませて、互いに議論させた方がずっと良い。
- 作者: 丸山真男
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