読み聞かせ実習の準備

読み聞かせは魔法!

読み聞かせは魔法!

 今週木曜日の言葉指導法Ⅱでは読み聞かせ実習の後半を行う。前半は4月25日だったから、実に3週間ぶりである。連休で1回お休みし、先週は本学の行事で授業がなかった。実は、この2回の授業での実習の前後にアンケート調査を学生に依頼している。あまり間が空いてしまうとアンケート調査の精度が落ちてしまうのだけれど、致し方ない。まあ、今回の結果はどうだったかと確認するだけでも、調査の意味合いはあると思うが。

 学生は3クラスに分かれているが、それぞれに別々の読み聞かせ方法を紹介し、練習させ、そして実習させている。1つは通常の読み聞かせ、もう1つは考え聞かせ、もう1つは対話読み聞かせである。これらの読み聞かせ方を自分で実演し、また友人の読み聞かせを聞いた後、学生の読み聞かせに対する考え方がどう変化するか(あるいはしないのか)を計測しようとしている。これを調査することで、3つの読み聞かせ方の特徴を考察したい。昨年のプレ調査では、考え聞かせが学生にとって馴染みにくいものであることが示唆されている。それを確認したいとともに、その解決策も考察してみたい。そして、この結果を6月2日の全国大学国語教育学会茨城大会で発表しようとしている。授業と研究と発表準備とが並行して進んでいる、なかなか綱渡り的でスリリングな毎日を過ごしている。

さて、学生たちは読み聞かせの準備をしてくれるかな。何しろ3週間ぶりだ。読み聞かせ方を紹介した時の熱は冷めてしまっていると考えていいだろう。本日、学生たちに実習への準備に取り組むようメールで指示した。どれくらい準備してきてくれるか、そして、明後日の授業でどれくらいその熱情を思い出してくれるか、不安ながらも楽しみである。

『「学校」をつくり直す』読了

「学校」をつくり直す (河出新書)

「学校」をつくり直す (河出新書)

本日、この本を読み終わった。いやぁ、大満足の本だった。今後、教育を語る上での基本書となる1冊だろう。
  第1章 何が問題の本質なのか?
  第2章 先生もつらい
この辺りは現状の教育の課題について分析している。ベースとなるのは「みんなで同じことを、同じペースで、同じようなやり方で」という現在の教育/教室の大前提を疑うことにある。この前提を疑うことにより、「落ちこぼれ」問題や「吹きこぼれ」問題にもメスが入るし、座学の授業の問題点だけでなく、昨今の猫も杓子もアクティブ・ラーニングの落とし穴についても言及する。教育現場でよく語られる「みんな仲良く」の問題点もある。教員の多忙、ユニバーざるデザインに基づく授業の問題点、エビデンスに基づく教育政策の問題、学力テストの意味など、従来の教育・教師が常識としていたことへの疑問点が次々に俎上に上げられる。なかなか小気味好い。
そして、筆者の根本的な提言である、「教育は、すべての子どもに「自由の相互承認」の感度を育むことを土台に、すべての子どもが「自由」に生きられるための”力”を育むためにある」という定義が提示され、公教育はこれを通して「自由の相互承認」を原理として市民社会の礎を築くためにある、とされる。筆者の著作を少しかじっているので、この言葉は初めて出会うわけではないが、改めて肝に命じておきたいものだ。

そして、本書の3分の2位を占める3〜5章が続く。
  第3章 学校をこう変える① 「探究」をカリキュラムの中核に
  第4章 学校をこう変える② 「ゆるやかな協同性」に支えられた「個」の学び
  第5章 わたしたちに何ができるか?
この辺りは圧巻である。「学びの個別化・協同化・プロジェクト化の融合」を掲げ、「探究」を中心にした学びの姿を描いていく。これは実にワクワクさせられる。「探究」とは実は「遊び」に等しい。真剣に遊ぶ者は真実の「探究者」である。先日のNHKテレビで放映された「ボクの自学ノート 〜七年間の小さな大冒険〜」も、そうした学び=遊びの姿を如実に示していた。
https://www.nhk.or.jp/docudocu/program/2443/2225660/index.html
「探究」を中心にした学び方を真剣に考え、実践してみたい気にさせられる。

また、教員養成機関の端くれに所属する者として、第5章の「教員養成の抜本改革を」の箇所はなかなかに考えさせられた。「探究」を中心にした授業を実践しようとする教員を養成する機関の授業が、旧態依然の詰め込み式であっては何の意味もない。そうした機関の授業こそ「探究」を中心とし、「プロジェクト型」の授業を中心とすべきだ、というのである。これは大賛成だ。
ただ、2年間という短大の制約の中でこれをどのように実現するか、十分に考えるべきところである。でも、幼児教育の現場はまさにこの「探究」を中心としたものである。日本の教育において、「探究」を通して学びを進めることが中心になっているのは、まさに幼児教育の場である。これが、小学校に入学するとともに「探究」から遠ざけられてしまう。そのことも大問題だが、「探究」が中心である幼児教育の現場に出ようとしている本学の学生たちにも、「探究」を中心とした授業がさらになされるべきだろう。私が自分の授業をどう展開していくべきか、先の2年間という時間の制約を考慮に入れつつ、トライしてみたいところだ。

ところで、「探究」を中心とした学びを、という提言は、かつての「総合的な学習の時間」が取り入れられた頃の議論を繰り返しているようにも思う。あの時、加熱した大学入試へのアンチテーゼとして提案された「ゆとり教育」だった。それが「大学生の学力低下」という声を受けて沈んでいったと理解している。今回、「探究」を中心とした学習への掛け声は、文科省経済産業省からも上がっている。あの頃とは違う文脈、国際競争力をつけるという声が後押ししていると思われる。今回も、ある意味では「外圧」によって教育の形が見直されようとしている。この中にあって、「子ども」が主語にならないのは気になるところだ。その点、本書はあくまで「自由の相互承認」を土台とした議論が進められている。安心できる。

また、本書に言及される参考文献の中に、私が注目している本がいくつもある。このことも、私の方向性が本書とある程度一致していることを示しているし、私の方向がさほど間違っていないことも理解できて、少し嬉しい。

本書は再読されるべきものである。私は今、久しぶりに本書で読書ノートを作成している。読了したので、今一度読み返しながら読書ノートを完成させようか。

Scrapboxでブログを試行中です

 今、Scrapboxによるブログを使い始めているのですが、なかなか便利そうです。そこで、公開ブログを下記のページに書いていますので、よろしければご覧になってください。

minemoto's blog 
scrapbox.io

 ちなみに,Scrapboxによる私のWebページは以下のものです。

 minemotolabo:峰本研究室
https://scrapbox.io/minemotolabo
  
 よろしくお願いします。

今、ギヴァー・クァルテットに夢中!

 今、久しぶりに読書熱に押されています! 全く、連休が終わって、今日から授業まっしぐらだというのに、読書の面白さにとりこになってしまいました!
 読んでいるのは「ギヴァー・クァルテット」。つまり、ロイス・ローリー作の『ギヴァー』から始まる4部作です。『ギヴァー』はもう何度も読み、学生にリーディング・ワークショップをさせる際の課題図書にも指定しているので、毎年読み返しているのだけれど、その続編に当たる2作はずっと読んでいませんでした。しかし、この春についに「クァルテット」と呼ばれるとおり、4部作の最後の作『ある子ども(原題「Son」』が翻訳されたのです! ぜひこれは、読み残していた第2作、第3作も読んで、この最新作を読もうと計画し、春休み中から少しずつ読んでいました。しかし、相変わらず読書は遅々として進まず、第2作で足踏みをしていました。でも、4月末に川越市に出かける機会があったのをきっかけに、行き帰りの新幹線の中で第2作を読了、さらに第3作を読み進め、今はついに第4作を絶賛読書中です。これが、すこぶる面白い! もうすぐ読み終わりますが、それが惜しいくらいです。

ギヴァー 記憶を注ぐ者

ギヴァー 記憶を注ぐ者

ギャザリング・ブルー 青を蒐める者

ギャザリング・ブルー 青を蒐める者

メッセンジャー 緑の森の使者

メッセンジャー 緑の森の使者

ある子ども

ある子ども

 これらの本を読んだ感想や考えたこと、それぞれの本のつながりについてはまた後日! ああっ! 授業準備に時間が取られるのがもどかしい!

リレー物語はやはり面白い

 今日の1年生の授業は教養Ⅰ(国語)である。この授業は通年の授業だが、今年も年間を通してライティング・ワークショップを行う予定である。昨年の実践は、ライティング・ワークショップのつもりでスタートしたのだが、どうやらほど遠い内容になってしまった。今年はその轍を踏まないよう、周到に準備している。
 しかし、第2回の今日は、昨年と同様「リレー物語」を書かせた。このリレー物語は私の持ちネタの中では鉄板のものである。学生に物語の出だしの部分を書かせ、その紙を次の人へ渡す。そして、自分のところに回ってきた前の人の書いた出だしを読んで、物語の続きを書く。これを次々に続けていって、物語を完成させる、というものである。昨年はこのやり方に工夫を加え、8回で完結させるようにした。そこに「物語の構造」の説明を加え、物語の構造を意識させながらリレー物語を継いでいく、という形にしたのだ。今回もそのやり方をそのままやってみた。昨年もそうだが、今年も成功したようだ。
 学生は、最初の出だしを考えるのには苦労していたようだが、回が進むごとに次第に真剣になっていき、自分の前に回ってくる他の人たちの物語の続きを書こうとどんどんのめり込んでいく。そして、8回が終わって物語が完成し、逆回しに紙を戻して自分が書き出した物語がどんなものに変容していったのかを確認するときになると、もう興奮の渦である。彼らの書いた中から1,2作品を私が取り上げて読み上げた。今年の学生の作品は一段と良い出来だったようだ。しっかりした物語の構えを見せている。
 学生の感想も、リレー物語は楽しかった、最初は難しそうだと思ったがやってみると夢中になった、等を書いてくれていた。ひとまずこれで、この授業への興味を持ち、文章を書くことの楽しさを味わい、ひいては来週以降のライティング・ワークショップの授業へスムーズに進んでいってくれることを願っている。

シバリのあるビブリオバトル開催記

 4月14日(土)に、久しぶりにビブリオバトルを開催した。イベントとしてのビブリオバトルである。場所は見附市図書館。3年前に県立図書館の行事の一環としてビブリオバトルを開催したが、それ以来のものである。
 大まかな進行は3年前のものとほぼ同じである。ただ、今回は1つの点が大きく違った。それは、今回は「シバリ」のあるビブリオバトルであった。具体的には、著者を事前に指定し、その著者に関する本を紹介するという形のものである。指定された著者は、主催者である見附市図書館の館長さんから指定された。養老孟司氏である。
 実は、この見附市図書館では5月に養老孟司氏を招いての講演会を予定している。主催者にお聞きしたところ、これまでも谷川俊太郎などの著名な方を講師に招いているのだそうだ。そして、小説家などを招いた際には、その前段階として小説家の作品に関わる勉強会や読書会のようなものを開催していたそうだ。しかし、今回は養老孟司氏である。氏の著作にまつわるもので何か会を開くにしても、今までのようなやり方ではあまり馴染まない。そこで、いっそビブリオバトルにしてみたらどうだろうか、それであるならば、3年前に県立図書館でコーディネータを務めた私にやらせよう、という考えで、私にこの話が舞い込んできたのである。
 この話の打診があったとき、私はかなり渋った。というのは、不勉強にも今回のように著者を限定したビブリオバトルなどあり得ない、と思い込んでしまったからだ。ビブリオバトルはバトラー自身が読んで面白いと思った本を持ち寄ることに、その生命があると考えている。読まされた本やあまり関心のない本を紹介しても、一時の場を過ごせるかもしれないが、生き生きとしたビブリオバトルにはならないだろうと思う。よって、著者を限定してしまう今回の企画は、ビブリオバトルの生命を封殺するようなものだ、と考えたのだ。しかし、主催者の館長さんの実に熱心な説得を受け、それほど言うのならやってみようか、と引き受けた話だったのだ。
 もっとも、これは私の完全な不勉強である。承諾した後、ビブリオバトルの文献をいくつか読んでみた。そうしたら、ちゃんと「テーマ」を絞ったビブリオバトルや「シバリ」のある(著者などを指定する)ビブリオバトルが全国各地で行われていることが分かった。しかも、今回のようなイベント的な性格のある場ならば、テーマ・ビブリオバトルやシバリのあるビブリオバトルは功を奏するだろう、とも記されていた。いやはや、不明のいたすところであった。そこで、今回の企画に沿って実施することで、私にとってもビブリオバトルの新たな面を開拓できるのではないかと思ったのだ。
 実際蓋を開けてみて、まさしく私の心配は杞憂に終わった。著者のシバリのあるビブリオバトルは大盛況だった。参加者もバトラーも主催者も、みんなが満足できる会になったのである。これは、まずは主催者の企画力、そして人選が功を奏しているだろう。まずは企画力である。ビブリオバトルを開こうと発想した点、それを著者のシバリのあるものとして計画した点、さらにその著者が養老孟司氏という、実に様々な分野の本を著されている方である点が、全てよい方向に寄与してくれた。4名が4名とも、それぞれの個性に応じた本を選択し、紹介してくれた。素晴らしいものだった。
 次に人選の妙である。バトラーとして選ばれたのは私を含めて4名だったが、他の3名は主催者である館長さんが名指しで選んだ方々である。一般市民にもバトラーの募集はかけたのだが、保険の意味でも3名に声を掛けておいたそうだ。その方々が3名とも素晴らしかった。バトラーは初体験であるが、私が見本として演じた後、それぞれに個性豊かに本を紹介してくれた。年齢も年配の方から30代まで、男性2人に女性1人、図書館主催の読書会などに参加されている方々などである。これらのバトラーの紹介がとても良かった。
 こうした環境の良さ、気軽さに助けられて、私も伸び伸びとコーディネーターを務め、またバトラーを演じることができた。残念ながら、今回もチャンプ本に選ばれることはなかったけれど、参加された30名ほどの一般の方々の反応も良く、終始伸び伸びと進めることができた。とても気持ちが良かった。
 終わった後、バトラーが紹介した本は全て図書館から借り出されていったそうである。そうしたことのお役に立てれば嬉しいし、また、5月に予定されている養老孟司氏の講演会への参加者が増えれば、これまた嬉しいことである。
 私としては、著者のシバリのあるビブリオバトルを実際に体験できて、その可能性を実感できたことが一番の収穫だった。
 ちなみに、私が紹介したのは以下の本である。

身体巡礼: ドイツ・オーストリア・チェコ編

身体巡礼: ドイツ・オーストリア・チェコ編

Dropboxの哀歓

 授業始まりの1週間が終わった。いやぁ,予想以上の疲労度だ。いかに自分の体力が衰えているかをまざまざと思い知らされる。特に水曜日はひどかった。後期の水曜日は2限から4限の3連続授業になってしまったのだけれど,これが終わった後で両脚が筋肉痛になってしまった。もう痛いやらだるいやら。お風呂に入ったときによく揉みほぐしたり,湿布を貼ったりして何とか対応した。今日の3限で1週間の授業が終わったのだけれど,もうぐったりしてしまった。体がなまっているね。このリズムを1か月ほど続けて,体を慣らしていかないと。
 そんな中,困ったことが起こっている。wordで文章を作成しようとすると,ローマ字入力で入力する先から確定してしまうのだ。だから,「幼児教育」と打ちたくても「yおじkyおいkう」みたいな感じで確定してしまう。以前にも同じ症状が出て,Facebookで助けを求めたところ,それはDropboxが原因だと教えてもらった。Dropboxはファイルを共同編集できるようになっていて,word文書の画面にDropboxのバッジが表示される。しかし,それがwordの何かに障害を起こすらしい。それで,Dropboxの設定でバッジを表示させないようにすると改善されるというのだ。前の時はそのとおりに設定して解決していた。しかし,最近また同じような症状が発生している。もちろんDropboxの設定は変更していない。つまり,バッジが表示されないようになっている。それでも同じ症状が起こるのだ。
 Facebookに書き込んで助けを求めてみたが,今回はどなたも反応していただけなかった。それで,自分でwebを調べたところ,Dropboxを終了すると改善される,という書き込みがあった。そこで試してみたところ,何と劇的に解消されたのである。ちなみに,Dropboxを再度起動させた状態でwordを使ってみたところ,見事に症状も再現された。これはもう間違いないだろう。
 万歳というところなのだろうが,これは私には非常に困る事態である。私はDropboxのヘビーユーザーというか,Dropboxにかなり依存しているユーザーである。容量こそ多くはないが,私が通常使用するファイルのほとんどすべてをDropboxの中に入れている。つまり,Dropboxが完全にUSBメモリと同等の役割を果たしているのだ。よって,Dropboxが使えないというのは非常に,非常に困る。他のクラウド・サービスに乗り換えるという手もあるが,One driveは使いにくいし,Google driveは今ひとつ使い方が分からないし,AppleiCloud driveはAppleのアプリ用のファイルでいっぱいだし,さぁて困った。
 今のところ,wordをできるだけ使わない方向で解決を探ろうとしている。しかし,どうしてもwordでファイルを受け渡ししなければならない場合があるからなぁ。その時には,Dropboxを終了するか……。やれやれ,困ったものである。どちらにお願いしたらよいのだろうね? Dropbox側? それともMicrosoft