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「駅長莫驚時変改 一栄一落是春秋」

 今日は授業は3コマ。理数科古典、理数科現代文、そして古典講読である。理数科現代文は時間が足りなかったので、人からもらった授業だった。これで無事試験範囲を伝え終え、さらに、範囲としたセンター過去問の漱石彼岸過迄」の解説も終える。しかし、「彼岸過迄」がセンター試験に出題されるとはなぁ。これは私の大学での卒論で扱った作品だ。私の卒論はこの作品論であった。今から思うとずいぶん勝手な思い込みの論だった。でも、とりあえず心血を注いで書いた論文だったので、愛着はあるし、あの時の思い出はまざまざとよみがえる。やはり、論文を書かせるというのはよいことだね。高校生にもさせようか。同時に、今書いている博論も、間違いなく私の記憶に刻み込まれるものとなるだろう。
 さて、古典講読は「菅原道真の左遷」の最終段階である。道真の3つの和歌と1つの漢詩について扱う。道真の2番目の和歌もまた悲痛なものである。「君しがらみとなりてとどめよ」と宇多法皇に訴える。無実の罪を着せられて都を追われる道真にとって、頼れるものは宇多法皇ただ一人である。だが、その法皇は、讒言者の一味である藤原菅根によって門を閉ざされ、帝に会うことができなかったという。自分の息子に意見することもできず、さらに寵臣の左遷をやるかたなく見ていることしかできなかった法皇の無念さも、また格別なものがある。この時代は、一度天皇の位を降りれば、それほどの影響力を持つことはできなかったのだろう。院政期の法皇の地位とはわけが違う。
 3首目の歌について、一度すべて訳させた後、「君が宿の」の「君」が誰のことなのかを生徒に考えさせた。そして、「法皇」「乳母」「妻(北の方)」の3つの説があることを紹介し、どれがふさわしいかと問い直した。生徒はいろいろに考えてくれた。そこで、「宿」という言い方が法皇の住まいを指すことはないことを示し、「妻」と考えた方が適切だろうと指摘した。何しろ流されていく道すがら、家の梢を見えなくなるまで振り返り振り返りしたというのだ。やはりそこに住んでいる人は「妻」がふさわしかろう。ある説によると、当時は道真の家は多少高台にあり、都を出て行く時に、家の庭の梢がしばらくはずっと見えただろうという。そう考えると、より切なくなる。そんなことも生徒に話して聞かせる。
 そして道真の絶唱にたどり着く。「一栄一落是春秋」と唱う道真である。和歌と漢詩の表現態度の違いが如実である。和歌はやはり情念を唱うことができる形式なのだろう。その点、漢詩は冷めた目を持たざるを得ない。悲しみに沈む自分自身を少し突き放したところから長め、駅長が自分のために嘆いてくれるのを、これも運命であると受け入れる姿を見せる。漢詩はそんな態度を表現するのにふさわしい。
 これらの後で、「大鏡」における道真の死の場面、さらにその後で彼が怨霊となって都に舞い戻り、様々な災厄をなす部分を生徒に示して読み聞かせる。また、雷神となって雷を鳴り響かせる道真に対し、時平が一括する場面も読んで聞かせる。大鏡はこの辺りの描写が非常に生き生きとしていて、読み聞かせにはもってこいだ。古文の読み聞かせというのも、良いかもしれない。むろん、ある程度の傍訳が付いているプリントが必要だし、そんなに前後関係を補うのに難しくない文章でなければならないが、大鏡の道真の話あたりは十分に可能だ。
 いやぁ、「菅原道真の左遷」の部分を初めて扱ったのだが、非常に充実した授業を展開できた。生徒にとって充実していたかどうかは分からないが、少なくとも私にとっては面白く授業ができた。生徒にはどうだったのだろう。今度確認したいところである。