評論を飛ぶように読んでいる

 9組と8組での授業。9組は鷲田清一の評論に初めて入る。他のクラスと同様に、音読をし、文章構成を確認して4段落に分け、形式段落1段落目の解説をする。比較的長めの、難解な文章を3時間で終わらねばならないため、どのクラスでも飛ぶように授業をしている。要するに私がほとんど解説をして終わっている。
 もちろんよろしくない授業であることは重々承知している。だが、この文章の場合は、余裕があったとしても4時間くらいでさらりと扱う方がよいのかもしれない。言わんとすることはそれほど複雑なことではない。筆者の主張は明確である。ただ、それを説明する言葉が抽象的で、それを各人で具体化するのが難しいのだ。
 評論を読むとは、いかに筆者の抽象的な言葉を自分自身で具体化するか、ということにあるのではないだろうか。筆者の主張を自分自身が見知っている既有知識の大系の中に位置づけ、さらには新しい知識として定着させる。その行為なのだろう。
 そういうところから評論の授業は発想されるべきである。生徒の既有知識を確認し、その大系の中に位置づける。そうした営みを授業の中に盛り込みたいものだ。