読み聞かせ実習のアンケート調査の分析が終わった

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先週の木曜日に、読み聞かせ実習の2回目が終わった。そして、アンケートの事後調査を行なった。そのアンケート結果を集計し、統計的分析をした。それが昨日、なんとか終わった。今回、用いたのは2要因混合計画による分散分析である。Macでも処理できるのと、慣れ親しんだツールだということで、js-STARを久しぶりに用いた。いやぁ、js-STARの入力方法が少し変わっていて焦ったこと。js-STARは細かいヴァージョンアップが繰り返されている。おかげで精度に信頼は置けるし、有用なツールなのだけれど、久しぶりに使った身としては慣れたアピアランスではなかったもので、少し焦った。でも、すぐに慣れることができた。

通常の読み聞かせと考え聞かせと対話読み聞かせを3つのクラスに振り分けて実習させ、その前後に同じ内容のアンケート調査を行う。その結果を分散分析で分析するわけだ。苦労してデータ形式を整え、1項目ずつjs-STARに入力する。Excelで下処理したデータをコピペで貼り付けて行くことができるけれど、26項目もある調査の1つ1つについては、1つずつ入力していかなければならない。まあ、データを貼り付け、分析ボタンを押すとすぐに結果が出てくるので、その意味では楽しくも苦しい作業である。およそ2時間くらいかな。分析作業は終わった。

しかし、1項目ずつ分析が進み、次第に思うわけだ。おいおい、これはこちらの予期していた結果にはならないぞ、と。今回は3つの手法の違いを分析しようとしているわけだ。実は、これにはかつて苦い経験がある。同様に3つの学習手法の違いを分析しようと実験計画を練り、3つの異なる方法で授業を行い、いざ分析だと意気込んでみたが、結果はこちらの思惑を反映するものではなかったことがある。その時の嫌な予感が頭をかすめる。これは今回も似たようなことになりそうだ、と危ぶみ始めた。というのは、統制群として設けていた「通常の読み聞かせ」の方に統計的意味のある変化が出てきたのだ……。

分析が全て終わり、危惧は現実のものとなった。統制群であるはずの方に有意の結果が出てしまった。正直、がっくり、である。しかも悪いことに、今回の実験結果は6月2日の全国大学国語教育学会茨城大会で発表する内容なのである。いやぁ、やはり学会発表というのは現在進行形の研究を発表しちゃいかんなぁ、しっかり分析まで終わったものを発表すべきだなぁ、と焦っていたのだ。

しかし、分析結果を時間をおいて考え直したところ、意外にこれは私の主張を裏付けるものになっているのではないか、と思い始めた。そう考えられると、現金なもので、俄然やる気が出てくる。今日は、この分析結果を元に学会発表資料となる表作りをせっせとしていた。人間、考え方次第でどうとでもなるものである。

この分析結果から4つの考察を導くことができる。順に書くと……
  3つの読み聞かせ手法は、基本的にはどれも学生の読み聞かせ観を向上させるのに役立つ。
  通常の読み聞かせも、読み聞かせ観の変化に寄与する。
  対話読み聞かせによって、1つの方法についての意識を変えることができる。
  考え聞かせは、今回の実験でも学生が身につけにくいものだと感じている。
ここから導出されるのは、考え聞かせの指導法について、より学生にわかりやすい方法を開発していく必要がある、ということだ。これらの考察は私の従来からの主張を裏付けるものとなっている。いやぁ、案外いい方向に行っているのではないのかな。

研究発表も、なんとか乗り切れそうだ。頑張れ! 私。

哲学対話の記事について

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日本経済新聞のWeb記事より

 日本経済新聞のWeb版に「キセキの高校」と題した記事が掲載されている。今日で3回目であるようだ。
https://www.nikkei.com/article/DGXMZO44480670X00C19A5000000/
https://www.nikkei.com/article/DGXMZO44496650X00C19A5000000/
https://www.nikkei.com/article/DGXMZO44531730Y9A500C1000000/?n_cid=NMAIL007

 この記事は東京都立大山高等学校での様子を報告している。この学校では哲学対話を取り入れている。哲学対話とは、参加者が車座になって座り、参加者によって対話するテーマを話し合って決め、そのことについて各自が自分の考えを話す活動である。話し合うときには毛糸のボールが用いられ、そのボールを持っている者だけが話すことができる。自分の意見を話し終えたら、次の人にそのボールを渡す。また大山高校では上記にあるルールに添って進められ、基本的に発言の自由と場が確保される。そして、ファシリテーターが中心となって、発言したことへの質問が投げかけられるのだ。「どうして?」「なぜ?」と。「そもそも〜はどういうことなのだろう?」「そもそも〜は何故なのだろう?」と、事のそもそも論が語られるのだ。

 しかし、記事によると、こうした哲学対話を繰り返すことで、以前は底辺校だったこの高校の生徒たちの、もともと持っていた対話力が開花されていき、熱心に自分の意見を語る姿が見られるようになる、という。そのことは、生徒たちの落ち着きを生み、生活態度が向上し、近年は進路状況にも大きな進展が見られるという。タイトルに「キセキの高校」とされる所以である。

 私は、この記事を読んで、以前より聞いていた「哲学対話」がどのようなものなのかを知ることができてよかった、と思う。これを実現するには、ファシリテーターを十分に訓練しなければならないかなとも思うが、記事における大山高校の実例を見る限りではそれほど大掛かりでもなさそうだ。なんとなく、生徒を信頼し、生徒に任せていれば、勝手に生徒は力を開花させるような気がする。そしてそれは、今日の教育現場が忘れ去っていることでもあろう。

 同時に、これを「キセキ」と読んでほしくないな、と思う。記事は、卒業生が上智大学の難関学部に入ったとか、進学実績の向上を大きなトピックとしてあげている。あるいは、記者もそうした方が人々の耳目を集めるために、あえてそのようにしているのかもしれない。しかし、第3回目の記事に出てくる、提唱者の東京大学の梶谷真司の基本的な考え方からは、そうした態度は明らかに違っているだろう。この記事の内容が「キセキ」などではなく、どこにでもあるものであってほしい。せめて、新潟県に1つか2つは、こうした実践を積み重ねている学校が出てきてほしいものだと思う。

「哲学対話」か……、私も授業に取り入れてみようかなぁ。

読み聞かせ実習の準備

読み聞かせは魔法!

読み聞かせは魔法!

 今週木曜日の言葉指導法Ⅱでは読み聞かせ実習の後半を行う。前半は4月25日だったから、実に3週間ぶりである。連休で1回お休みし、先週は本学の行事で授業がなかった。実は、この2回の授業での実習の前後にアンケート調査を学生に依頼している。あまり間が空いてしまうとアンケート調査の精度が落ちてしまうのだけれど、致し方ない。まあ、今回の結果はどうだったかと確認するだけでも、調査の意味合いはあると思うが。

 学生は3クラスに分かれているが、それぞれに別々の読み聞かせ方法を紹介し、練習させ、そして実習させている。1つは通常の読み聞かせ、もう1つは考え聞かせ、もう1つは対話読み聞かせである。これらの読み聞かせ方を自分で実演し、また友人の読み聞かせを聞いた後、学生の読み聞かせに対する考え方がどう変化するか(あるいはしないのか)を計測しようとしている。これを調査することで、3つの読み聞かせ方の特徴を考察したい。昨年のプレ調査では、考え聞かせが学生にとって馴染みにくいものであることが示唆されている。それを確認したいとともに、その解決策も考察してみたい。そして、この結果を6月2日の全国大学国語教育学会茨城大会で発表しようとしている。授業と研究と発表準備とが並行して進んでいる、なかなか綱渡り的でスリリングな毎日を過ごしている。

さて、学生たちは読み聞かせの準備をしてくれるかな。何しろ3週間ぶりだ。読み聞かせ方を紹介した時の熱は冷めてしまっていると考えていいだろう。本日、学生たちに実習への準備に取り組むようメールで指示した。どれくらい準備してきてくれるか、そして、明後日の授業でどれくらいその熱情を思い出してくれるか、不安ながらも楽しみである。

『「学校」をつくり直す』読了

「学校」をつくり直す (河出新書)

「学校」をつくり直す (河出新書)

本日、この本を読み終わった。いやぁ、大満足の本だった。今後、教育を語る上での基本書となる1冊だろう。
  第1章 何が問題の本質なのか?
  第2章 先生もつらい
この辺りは現状の教育の課題について分析している。ベースとなるのは「みんなで同じことを、同じペースで、同じようなやり方で」という現在の教育/教室の大前提を疑うことにある。この前提を疑うことにより、「落ちこぼれ」問題や「吹きこぼれ」問題にもメスが入るし、座学の授業の問題点だけでなく、昨今の猫も杓子もアクティブ・ラーニングの落とし穴についても言及する。教育現場でよく語られる「みんな仲良く」の問題点もある。教員の多忙、ユニバーざるデザインに基づく授業の問題点、エビデンスに基づく教育政策の問題、学力テストの意味など、従来の教育・教師が常識としていたことへの疑問点が次々に俎上に上げられる。なかなか小気味好い。
そして、筆者の根本的な提言である、「教育は、すべての子どもに「自由の相互承認」の感度を育むことを土台に、すべての子どもが「自由」に生きられるための”力”を育むためにある」という定義が提示され、公教育はこれを通して「自由の相互承認」を原理として市民社会の礎を築くためにある、とされる。筆者の著作を少しかじっているので、この言葉は初めて出会うわけではないが、改めて肝に命じておきたいものだ。

そして、本書の3分の2位を占める3〜5章が続く。
  第3章 学校をこう変える① 「探究」をカリキュラムの中核に
  第4章 学校をこう変える② 「ゆるやかな協同性」に支えられた「個」の学び
  第5章 わたしたちに何ができるか?
この辺りは圧巻である。「学びの個別化・協同化・プロジェクト化の融合」を掲げ、「探究」を中心にした学びの姿を描いていく。これは実にワクワクさせられる。「探究」とは実は「遊び」に等しい。真剣に遊ぶ者は真実の「探究者」である。先日のNHKテレビで放映された「ボクの自学ノート 〜七年間の小さな大冒険〜」も、そうした学び=遊びの姿を如実に示していた。
https://www.nhk.or.jp/docudocu/program/2443/2225660/index.html
「探究」を中心にした学び方を真剣に考え、実践してみたい気にさせられる。

また、教員養成機関の端くれに所属する者として、第5章の「教員養成の抜本改革を」の箇所はなかなかに考えさせられた。「探究」を中心にした授業を実践しようとする教員を養成する機関の授業が、旧態依然の詰め込み式であっては何の意味もない。そうした機関の授業こそ「探究」を中心とし、「プロジェクト型」の授業を中心とすべきだ、というのである。これは大賛成だ。
ただ、2年間という短大の制約の中でこれをどのように実現するか、十分に考えるべきところである。でも、幼児教育の現場はまさにこの「探究」を中心としたものである。日本の教育において、「探究」を通して学びを進めることが中心になっているのは、まさに幼児教育の場である。これが、小学校に入学するとともに「探究」から遠ざけられてしまう。そのことも大問題だが、「探究」が中心である幼児教育の現場に出ようとしている本学の学生たちにも、「探究」を中心とした授業がさらになされるべきだろう。私が自分の授業をどう展開していくべきか、先の2年間という時間の制約を考慮に入れつつ、トライしてみたいところだ。

ところで、「探究」を中心とした学びを、という提言は、かつての「総合的な学習の時間」が取り入れられた頃の議論を繰り返しているようにも思う。あの時、加熱した大学入試へのアンチテーゼとして提案された「ゆとり教育」だった。それが「大学生の学力低下」という声を受けて沈んでいったと理解している。今回、「探究」を中心とした学習への掛け声は、文科省経済産業省からも上がっている。あの頃とは違う文脈、国際競争力をつけるという声が後押ししていると思われる。今回も、ある意味では「外圧」によって教育の形が見直されようとしている。この中にあって、「子ども」が主語にならないのは気になるところだ。その点、本書はあくまで「自由の相互承認」を土台とした議論が進められている。安心できる。

また、本書に言及される参考文献の中に、私が注目している本がいくつもある。このことも、私の方向性が本書とある程度一致していることを示しているし、私の方向がさほど間違っていないことも理解できて、少し嬉しい。

本書は再読されるべきものである。私は今、久しぶりに本書で読書ノートを作成している。読了したので、今一度読み返しながら読書ノートを完成させようか。

Scrapboxでブログを試行中です

 今、Scrapboxによるブログを使い始めているのですが、なかなか便利そうです。そこで、公開ブログを下記のページに書いていますので、よろしければご覧になってください。

minemoto's blog 
scrapbox.io

 ちなみに,Scrapboxによる私のWebページは以下のものです。

 minemotolabo:峰本研究室
https://scrapbox.io/minemotolabo
  
 よろしくお願いします。

今、ギヴァー・クァルテットに夢中!

 今、久しぶりに読書熱に押されています! 全く、連休が終わって、今日から授業まっしぐらだというのに、読書の面白さにとりこになってしまいました!
 読んでいるのは「ギヴァー・クァルテット」。つまり、ロイス・ローリー作の『ギヴァー』から始まる4部作です。『ギヴァー』はもう何度も読み、学生にリーディング・ワークショップをさせる際の課題図書にも指定しているので、毎年読み返しているのだけれど、その続編に当たる2作はずっと読んでいませんでした。しかし、この春についに「クァルテット」と呼ばれるとおり、4部作の最後の作『ある子ども(原題「Son」』が翻訳されたのです! ぜひこれは、読み残していた第2作、第3作も読んで、この最新作を読もうと計画し、春休み中から少しずつ読んでいました。しかし、相変わらず読書は遅々として進まず、第2作で足踏みをしていました。でも、4月末に川越市に出かける機会があったのをきっかけに、行き帰りの新幹線の中で第2作を読了、さらに第3作を読み進め、今はついに第4作を絶賛読書中です。これが、すこぶる面白い! もうすぐ読み終わりますが、それが惜しいくらいです。

ギヴァー 記憶を注ぐ者

ギヴァー 記憶を注ぐ者

ギャザリング・ブルー 青を蒐める者

ギャザリング・ブルー 青を蒐める者

メッセンジャー 緑の森の使者

メッセンジャー 緑の森の使者

ある子ども

ある子ども

 これらの本を読んだ感想や考えたこと、それぞれの本のつながりについてはまた後日! ああっ! 授業準備に時間が取られるのがもどかしい!

リレー物語はやはり面白い

 今日の1年生の授業は教養Ⅰ(国語)である。この授業は通年の授業だが、今年も年間を通してライティング・ワークショップを行う予定である。昨年の実践は、ライティング・ワークショップのつもりでスタートしたのだが、どうやらほど遠い内容になってしまった。今年はその轍を踏まないよう、周到に準備している。
 しかし、第2回の今日は、昨年と同様「リレー物語」を書かせた。このリレー物語は私の持ちネタの中では鉄板のものである。学生に物語の出だしの部分を書かせ、その紙を次の人へ渡す。そして、自分のところに回ってきた前の人の書いた出だしを読んで、物語の続きを書く。これを次々に続けていって、物語を完成させる、というものである。昨年はこのやり方に工夫を加え、8回で完結させるようにした。そこに「物語の構造」の説明を加え、物語の構造を意識させながらリレー物語を継いでいく、という形にしたのだ。今回もそのやり方をそのままやってみた。昨年もそうだが、今年も成功したようだ。
 学生は、最初の出だしを考えるのには苦労していたようだが、回が進むごとに次第に真剣になっていき、自分の前に回ってくる他の人たちの物語の続きを書こうとどんどんのめり込んでいく。そして、8回が終わって物語が完成し、逆回しに紙を戻して自分が書き出した物語がどんなものに変容していったのかを確認するときになると、もう興奮の渦である。彼らの書いた中から1,2作品を私が取り上げて読み上げた。今年の学生の作品は一段と良い出来だったようだ。しっかりした物語の構えを見せている。
 学生の感想も、リレー物語は楽しかった、最初は難しそうだと思ったがやってみると夢中になった、等を書いてくれていた。ひとまずこれで、この授業への興味を持ち、文章を書くことの楽しさを味わい、ひいては来週以降のライティング・ワークショップの授業へスムーズに進んでいってくれることを願っている。