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ひたすらリハビリの日々である

 1月9日に博士論文を提出した。その後、その重荷を下ろして解放感に浸れるかと思ったのだが、やってきたのは重苦しい疲労感だった。ただひたすら眠い。9日のその日に睡眠を多く取ったのだが、その後も眠気はちっとも去らず、様々な機会を捉えて私を眠りに引きずり込んでいく。しかもそれが家にいる時のものだから、家族の者に呆れられることになる。こたつに入ってすぐに居眠りする、子どもを寝かしつけようとして自分が寝てしまう、などなど。おかげで妻からの受けは非常に悪い。何しろ彼女は怪我をしており、それがまだまだ治らない状態において、欲するのは私のサポートなのである。それなのに、その私が寝てばかりいる。やれやれ。険悪な雰囲気になるのは当たり前だ。
 今日は14日。東京で毎年恒例の聖書学び会の行われる日である。私はこの学び会に出席しない。論文を提出し、その後で比較的すぐに行われるこの学び会に、そうそう良い状態で臨むことはできないだろうと思ったからだ。だが、結果的にはこの判断が功を奏したことになる。怪我をした妻を置いて私だけが行ったら、いったいどんなことになるか……。考えただけでも恐ろしい。
 そして今日は1日中自宅にいて、幼い三男の相手をしたり、子どもの勉強を見たり、本を読んだり、そして睡眠もとった。三男と一緒にお昼寝までした。おかげでだいぶ頭がすっきりしたようだ。何しろ、ここ数日軽い頭痛に見舞われていた。今朝もそれが襲ってきたが、何とか収まった。ようやくまともな日常生活を送ることができそうである。
 これからなすべきことは相変わらず多い。だが、一つずつこなしていくしかない。そして、もう少し時間管理をしっかりして、後ろに仕事をため込まないようにしたい。だが、今回も反省したそのことができなかったからなぁ。これからもできないかな。
 さて、長男のために買ったこの小説に、今は私がはまっている。

 あるいは典型的な「ライトノベル」なのかもしれないが、それでもその単純さがある意味、癖になる。主人公のどうしようもないモテぶりにやや閉口するが、ライトノベルの段階では仕方ないのではないか。複雑な人間関係などに疲れている時には、避難所として機能する。
 小説にはこの「現実からの逃避」という機能がある。決して侮れないと思う。人はこれによって傷ついた心を癒し、また新たなエネルギーを得る。小説自体に人を変えることはできないかもしれないが、人を慰めることはできる、と思う。
 しかし、ライトノベルを「ラノベ」と省略する、その言語感覚が私には受け入れがたい。「スマホ」もそう。言葉を短く省略するのを好む傾向は、あるいは短詩型文学の伝統を持つ日本語の特質なのかもしれない。だが、私には受け入れがたい。そもそも、「ライトノベル」とこの手の小説を規定するのもどうかな、と思う。人の心を動かすのに「ライト」も「ヘビー」もないだろう。「純文学」という言い方にも何か嫌悪感を感じるのと同じである。小説に「ピュア」や「ダーク」があるのかな。