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紫の上と女三の宮との違い

 今日の授業は2コマ。古典講読と古典である。講読の方は、引き続き『史記』より韓信の話を読む。韓信の「国士無双」の話だ。彼が蕭何にいかに信頼され、いかに重要視されたかがよくわかるエピソードだ。だが、教科書の採録場面では、その前の韓信が若い頃はいかに体たらくであったかがさんざんに示されるエピソードで終わっており、そこからいきなり蕭何が韓信と語り、その信頼を得るという話に接続している。この辺りはもう少し追加のエピソードが欲しいところだ。そこで国語教師の出番となる。口語訳をさせながら、その辺りのところを補足する。
 古典は源氏物語の「若菜上」に本格的に入った。ここは、女三の宮が柏木たちにその姿を垣間見られてしまう場面である。その際、首紐の付いた猫が簾を巻き上げてしまうという事件が起こるのだが、そもそもそのような事件が起こるのも、女三の宮付きの女房たちの配慮のなさ、彼女たちの慎みのなさが原因である。紫式部はその辺りのことをちゃんと情景描写によって知られるように書いている。女三の宮付きの女房たちが着物の裾を御簾の外に出して、若い公達たちにこれ見よがしにしている様や、猫の事件が起こった際にただ慌てふためくだけで、肝心の御簾が巻き上げられてしまったことを見のがしていることなどが、ちゃんと書いてある。さすがは紫式部である。
 だが、そもそもの原因は、そうした女房集団を統率できない、女三の宮の幼さにあるのだろう。女主人である彼女の能力のなさが、一人一人は高い能力を持って召されたであろう女房たちを統率できない。そのために、彼女たちに適切な対応を取らせることなく、しかも自らが几帳のそばに端近に立ち、自らの姿をさらしてしまう。紫式部は女三の宮のこの思慮のなさを残酷なまでに的確に描写する。それがこの後の事件のすべての発端である。
 思えば、紫の上は決してこのような醜態をさらすことはなかった。彼女はその女房たちを自らの能力を持って統率し、どんなときにも対応できる高い機動性を持たせていた。いわば、紫の上側の女房集団は中宮彰子の後宮のそれであったのだろう。そんな中で、かの野分の日に、夕霧にその姿を垣間見させているのは異例中の異例と言うべきである。
 本当に源氏物語は良くできている。亡くなった丸谷才一氏は、源氏物語は若菜巻から読むといい、と言っていたそうだ。若菜巻からまるで現代小説のように人々の心情が記されているからだ、と言う。若菜を読み進めながら、なるほどなと思う。今まで若菜はあまり好きではなかったのだが、これもやはり食わず嫌いかな。読み込んでみると、本当にその描写は舌を巻く。
 今日は土日と続いた風邪の影響で、ずっと身体がボーっとしていた。頭は明晰なのだが、身体が重い。だるい。仕方なく、教室で椅子に座りながら授業を進めた。まだ体調は不十分だ。1週間以来ひいている風邪が悪化したのか、この土日はずっと寝ていた。おかげで書き進めようとしている「論文」が相変わらず書けずにいる。全く、困ったものだ。それでも、遂にこの「論文」の序章を書き始めた。それだけでも可とすべきである。一歩でも、半歩でも、前進したことを喜ぼう。