ヤコブ書を学ぶ

 ようやく、必ず学校にいなければならない、という用事が済んだので、今日と明日は午前中休みを取って、自分の行っている集会の特別伝道集会に参加する。今週は午前中に聖書学び会が行われている。10時から12時前まで、聖書のある1章を取り上げて、学び会を行う。今年の箇所は「ヤコブの手紙」である。「ヤコブの手紙」とは新約聖書のある1書である。ヤコブとは主イエス様の肉の兄弟である。主イエス様はヨセフとマリヤの夫婦の長男であるが、他にも兄弟姉妹がいたことが知られている。そのうちヤコブとユダという人はそれぞれ新約聖書の1書を書いている。このヤコブという人はもちろんクリスチャンである。自分の兄ではあるが、イエス様を自分自身の主であると受け入れた。そして、厳格な人で、イエス様の教えに忠実に従って生涯を貫き通した。そのため、エルサレムに起こされた集会では「柱」の一人として重んじられたのである。そのヤコブが諸国に散らされた同国人であるユダヤ人クリスチャンに宛てて書いたのが、5章からなる「ヤコブの手紙」である。
 聖書を学ぶ、とはどうするのだろうか。私が属している集会では、牧師や神父がたった一人で聖書を「教える」といった形をとらない。それは聖書が教えているクリスチャンの集まり方に反している。そこで、聖書に示されているとおりに、兄弟である男性の信者が数人、各自が教えられたことを話する。そうすることで互いに学び合い、教え合うのである。今日ならば「ヤコブの手紙」の4章を最初に朗読し、そこから教えられたこと、自分が学んだことを数人の兄弟が話する。それが約1時間くらい続く。今日は5人の兄弟が学んだ。その後、約1時間くらいは質疑応答の時間である。この4章について疑問な点、質問、またさらに教えられたことを各自が質問し、答えを持つ人が答える。このような形で進む。よってそれは、一種の読書会といっても良いだろう。あるいは極めて自発的な読者反応の交流会であり、またリーディング・ワークショップの一形態と言っても良いと思う。つまり、以下のような特徴がある。

  1. 集まりの目的は、「聖書は何を教えているか」を明らかにすることである
  2. 上の目的のために、各自が自由に学び、語ることができる
  3. 質問・疑問を持つ者は、自由に問うことができ、それに答えるのも答えを持つ者が自由に答える
  4. そのために、集まる者は事前に各自で該当箇所を読んできて、教えられたことを持つことが奨励される

もちろん信仰を持つ者たちの集まりなので、単純に読書会やワークショップと比較することはできない。しかし、一つの書を中心にして、そこに何が書かれているのかを明らかにするために行う活動としては、リーディング・ワークショップなどと極めて似ているのではないか、と思う。
 このようにして学ばれたことは、非常に多くの教えに富んでいる。心に染み入る。単に誰かよく知っている人から教えられることとは違い、自分たちが積み上げ教え合い、自分たちで作り出す「学び」である。よって、参加した者は往々にして極めて深い満足感を得る。何しろそれは、たとえ自分は何一つ発言しなくても、「学び」が形成される場に自分自身もいることによって、自分自身が「学んだ」という実感を持つことができるからだ。
 思うに、学校教育とは極めて制度化された教育形態なのだろうと思う。本来の学びの場とは、このように相互交流的なものだったはずだ。それが、効率化の追求と、等しい「国民」を生み出し、軍事に、産業に、従事させる人間たちを大量に作り出す必要に迫られた近代国家が採用した、極めていびつな教育形態なのだろう。そして、ライティング・ワークショップやリーディング・ワークショップ、アニマシオンなどの交流を主とした学習形態は、いわばシステム化され効率化された教育形態の疲弊を補うべく生み出された、一つの先祖返りのものなのではないだろうか。
 とはいえ、この学び会には自分自身も話することによって、より深く聖書の意味するところを知ることができる。私もわずかながらお話をいたしました。それが他の方により受け入れられる、という経験もまた嬉しく、励まされるものだ。

研究日誌

 午後は勤務に戻る。ようやく重い腰を上げ、5月に学会で発表した研究の原稿を修正する作業に取りかかる。ところが、始めてみるとこれがけっこう時間がかかりそうなことに気づく。根本的な問題をいくつか解決しなければならないことが分かってきた。まあ、そうだろうとは分かっていたが、改めてそれを実感すると、ちょっと途方に暮れる。
 今日はそのために、昨年の「こころ」の授業で生徒に書かせた「私の『こころ』論」を読み始めてみたのだが、今の私が期待するようなことを、その時の私は生徒にさせていなかったことに気づく。おかげで生徒の文章からは私の意図していることが引き出せなさそうだ。やれやれ。その時はこれが必要だと思ってやったことだけれど、それがいかに生徒の自由な反応を妨げていたかということに気づかせられる。自由な反応・自主的な学びは制約された形の中から生まれるはずがない。その簡単なことに、教師はなかなか気づかない。そして、今まで自分がやり続けていた教育形態からなかなか自由になれない。
 自分は聖書学び会のように、自発的な学びの姿を経験しているのにね。学校という場においてはそれは通用しないといつの間にか思ってしまう。教師という者は自らの教え方という牢獄にがんじがらめに閉じこめられて、他の教え方があるという考えから最も不自由な人間なのかもしれない。やれやれ。