文章構造分析の力を付けさせる授業の構想が必要だ

 今日の授業は現代文が2コマ、古典が1コマあった。現代文は1コマは理数科で、「舞姫」の続きをやっている。何とか豊太郎がロシアから帰ってくるところまでたどり着いた。あと1コマあるので、これで夏休み前に「舞姫」を終えることができる。長かった……。
 さて、もう1コマは文系。これは評論を扱っている。李禹煥の芸術論で「画家の領分」というものだ。教科書収載の評論文には珍しく、文章構造がしっかりしている文章だと思う。それで、文章構造を読み取らせる授業を行っている。今日で2時間目だ。
 1時間目はまず音読をさせた。4人グループにして、グループ内で形式段落ごとに順番に音読をするようにさせた。こうすると、正確に音読できているかどうか教師のコントロールが効かなくなるけれど、それは4人グループ内の自助作用を信頼することにする。その後、前文・本文・後文の3段落に分けた文章構造図の枠をプリントで示し、本文の11の形式段落はこの3段落のどこに位置するかを考えさせた。その際、前文は問題提起(=筆者の主張の提示)であり、後文は結論(=筆者の主張の再提示)であることを強調して、この前文と後文とが一対一対応しなければならないことを強調した。そうなるように前文の範囲、後文の範囲を確定するよう求めた。
 生徒に個人で考えさせたあと、隣同士や前後で作業結果を確認させた。だが、生徒たちの発言を聞いていると、その範囲は予想以上にまちまちのようであった。そこで、私が解説をしながら、一気に前文と後文とを指定した。前文は形式段落1番目のみ、後文は形式段落の最後のみである。それは、前文と後文とに書かれている内容がちゃんと一対一で対応するからである。そこに他の形式段落の要素を入れてしまうと、一対一対応しなくなる。よって、前文・後文とも1形式段落のみなのである。
 だが、これを生徒にいきなり確定させるのはいくら何でも無茶苦茶だなと、授業が終わった後で考えた。私のやったことは、いわば料理の初級者に包丁とまな板とを与え、包丁の使い方を確認させたあとで、1匹のマグロを刺身にしろ、と要求しているようなものである。つまり、材料は与えた。分析するための手段も与えた。その扱い方も与えた。だが、それらを用いて練習する機会を与えることなく、いきなりマグロ1匹をおろすという本番に臨ませたわけだ。こうした場合、普通は別の小さい魚で何度か練習を重ねさせ、その後で本番に臨ませるだろう。また、本番とはいっても最初は十分につきっきりで教えてやり、慣れてきたところで全てを任せるだろう。しかし、授業においては課題としていきなり本番に臨ませて、さあ十分な結果を挙げろ、と要求することが多いのではないだろうか。
 私の場合ならば、前文・本文・後文と3段落に分けることを指示し、前文と後文とを一対一対応させるように範囲を確定するというやり方を示したあとで、それを練習させる必要があった。例えば、前文・本文・後文とよりはっきりと分けやすい別の文章を2つか3つ示し、それで段落分けをする練習をさせたあとで、教科書本文という本番に臨ませる、というように授業を展開させるべきだった。
 普通、スポーツのコーチは選手に練習もさせずにいきなり結果を出すよう求める人はいない。やり方をレクチャーしたあとは必ず練習をさせる。国語の授業においては、生徒に要求することは知識に関することばかりでなく、言語を操作するという技能的なものに関することが多い。そうした要求の場合、いきなり結果を求めるのはナンセンスである。まずは十分な練習をする機会を与え、本番に臨ませても失敗しても構わないようなことにし、ちゃんとやり直しの機会を設けておくべきである。そうしなければ決して言語操作技能は身につかない。だからこそ国語という教科が「分からなく」なるのである。
 以上の授業は、構想と準備をしっかりしておけば、1時間で可能である。今回は、終わったあとで気づいた。うーむ、生徒に謝らなければ。

2冊読了

村上春樹論 『海辺のカフカ』を精読する (平凡社新書)

村上春樹論 『海辺のカフカ』を精読する (平凡社新書)

 この数日間で上の2冊を読了した。『ビブリオ古書堂の事件手帖3 栞子さんと消えない絆』は、相変わらず長男のリクエストで購入したものだ。彼が先に読み、私がお下がりをもらって読んだ。自分の息子と一緒に同じ本を読むことができるなんて、なかなかの幸せである。この巻も楽しんで読めた。ミステリー性が少々感じられて、とても面白かった。次作が待ち遠しい。
 『村上春樹論』は、『海辺のカフカ』を読み終えたので、その参考にと思って読んだ。数年前に途中まで読んで挫折していたが、今回は最後まで読んだ。著者の小森陽一氏は漱石論の大家であり、尊敬する著者の一人である。だが、この本においてはその論旨に賛同できない点を感じた。氏は村上春樹の『海辺のカフカ』が文学への冒涜であるような主張をしているのだが、かくいう氏は文学をどのように受け止めているのだろうか。私は、『海辺のカフカ』が仮に氏の主張するような内容であったとしても、それが現代社会の姿であり、それを村上春樹は描き出したのだし、それこそは文学のあり方だと思う。小森氏がそれを文学への冒涜であるように言うという点に、私は逆に氏の文学に対する偏向を感じ取る。
 もっとも、私は筋金入りの村上春樹ファンですから、私の読み取りにもまた偏向があることは否定いたしませんが……。(^_^;)