授業の記憶、生徒の記憶

 今日で授業は終わり。明日は終業式、そして離任式が行われる。今年はどんな授業を展開し得たのだろうか。少しは生徒の心に残る授業ができただろうか。そんなことをふと気にしたりする。
 私がはっきりと記憶に残っている高校の国語の授業は、意外な内容のものである。それは高校2年生の時、中島敦の『山月記』の読解が終わった次の授業で、先生(田村先生とおっしゃる)がクラス全員に中島敦の『李陵』の文庫本を配り、1時間まるまるその本を読ませてくれた、というものだ。
 誤解のないように言っておくが、決して田村先生の他の授業がつまらなかったわけではない。それどころか、この先生から教わった夏目漱石の『それから』の授業によって、私は国文学を志すようになったのだ。しかし、自分が高校生の時に受けた授業は、その内容を思い出すよりもその先生を思い出す。そして、その先生による授業の全体の雰囲気を覚えている。残念ながら内容そのものを覚えている授業はほとんどない。
 でも、田村先生によるその文庫本の読書オンリーの授業ははっきりと記憶している。そして、50分間『李陵』に釘付けになったことも。周りを見ても、居眠りをするような級友は一人もいなかった。皆が『李陵』の世界に没頭していたようだった。これは『李陵』を選んだことが大正解だった。こんなに息が詰まるような小説を読んだのは初めてだった。
 この田村先生の授業ほどではないにしても、私の授業の内容が生徒の心に残る、ということがあるのだろうか。全体の雰囲気はおそらく記憶してもらえるだろうが。
 というのも、今日、ある卒業生が私を訪ねてきてくれたのだ。K君である。彼は私が勤務校で初めて担任をしたクラスの生徒である。彼は少し苦労をした生徒だ。それでも努力をして、その苦労を克服した姿を私に見せに来てくれた。彼とはその1年間担任であっただけなのに、このように覚えていてくれて、そして私を訪ねてくれた。本当に嬉しかった。
 自分という存在が他の誰かに覚えていてもらえる、これは人間としての最高の喜びではないだろうか。教師は毎年多くの生徒たちと出会い、そして別れていく。だからこそ、多くの若者たちに自分を記憶してもらえる。あるいはふと思い出した時に、高校時代の甘い記憶とともに、我々教師の姿がある。それはとても贅沢なことであると思う。
 K君を初めとして、私にとっても最初に担任したクラスの思い出はとてもとても大切なものである。それを久しぶりに思い出させてくれた。K君、ありがとう。