「堀河殿、最後の参内」の授業

 2組での授業。堀河殿が何故「あさましく心憂き」と怒りに燃えたのか、その理由を考える課題に取り組み、2段階で考えるべきことの1段階目で前時は終わっていた。それをもう一度やり直すところから今日の授業は始まった。何という非効率! 授業展開をもっとしっかり考えて、山場はちゃんとその授業内で終わるべきだなぁ。
 で、その課題の内容を再確認し、前回まで到達していたことを確認して、本題の課題解決に入る。堀河殿が「あさまし」と思った理由は何か? つまりは、堀河殿が自分の病床の見苦しいものを除いて、部屋をきちんと取り片付けたのは何故か、という課題である。これを生徒にしばらく自由に討議させ、その後6人くらいに考えを聞いてみる。
 その解答は、他のクラスよりは深い読みを示してはいたものの、その全員が、堀河殿が部屋を取り片付けたという事実だけを見て、自信の想像力や状況類推力を使って解答するものばかりであった。あえて強調しなかったのだが、うーん、どうして文章を読もうとしないのかなぁ。どんなによい考えでも、文章の表現自体に根拠がなければ、それは当て推量に過ぎない。論理的な解答とは言えないだろうに。文章から根拠を見つけるのだ、ということは1年生の頃からさんざん言い続けていることなのだが、やはり、「言う」だけではダメなのだね。実際にやらせてみないと。その経験を積んでみないと。
 ということで、考えられ得る解答を生徒に示すというつまらない結果になってしまった。
 その後は、堀河殿の怒りがどれほど強烈なものかを示すエピソードが続く。どんどん口語訳をしていく。上記の怒りの原因さえ分かれば、この文章はすべて分かったも同然。ガンガン訳す。
 古典においても、作者の意図や登場人物の心情などを考え、まとめ、理解していくことは必要である、と昨日の教育課程講習会では強調されていた。そして、新しい「古典A」やら「古典B」という科目は、そうした言語活動を中心に教えられるべきだ、とされていた。しかし、そんなのは当たり前。学習指導要領で言語活動を強調されなくても、古典で考えさせる授業はさんざん(というか、ほぼ毎回)やっている。まあ、私の取り組んでいる方向性が学習指導要領によってもあとづけられた、とも言えるけれどね。