「鶏鳴狗盗」の授業

 今日は2コマとも講読の授業である。4組と2組。4組は試験前最後なので、「鶏鳴狗盗」を必死になって終わらせる。この文章は最後の「客皆服」をどう解釈するかが要となる。その直前には鶏の鳴き真似をした者や犬の格好をして盗みをはたらく者の活躍のおかげで孟嘗君が秦での危機を乗り越えることができ、二人は大いに名を上げたということが記されている。その後で「客皆服す。」と続く。食客たちはいったい誰に「服」したのか、これが解釈上の問題である。
 4組で指名した生徒は「二人に服従した」と訳した。なるほど。他の生徒2、3人に聞いてみたが同様の答えであった。そこで、別の可能性はないかと聞いたところ、「孟嘗君に服従した」と答えた者がいた。そこで、その2つの解答を並列して板書し、この「鶏鳴狗盗」の話において孟嘗君食客たちをどのように扱っていたか、ということを思い起こすようにと前置きして、2つの解答のどちらを選ぶか手を挙げさせたところ、先の2、3人以外はすべて「孟嘗君」説を採った。よしよし、そう来なくっちゃね。
 この「鶏鳴狗盗」では、孟嘗君が自分の食客たちを全く差別なく自分と同等に扱っていたからこそ、食客たちは存分にその能力や技能を用い、卑しい技能を持っている者でさえ活躍して、孟嘗君の危機を救った、という点が要である。従って、食客たちが同じ食客である2人に「服従」することはあり得ない、と考えなければならない。では、「客皆服」はどう解釈するか。「服」を使ったまた別の熟語を必死で思いついて、「食客たちはみな孟嘗君(の度量の深さ)に『感服』した。」とでも訳すことができるだろう。これで、全体の話の流れと矛盾しない訳ができあがる。
 この「客皆服」をどう解釈するか、という問いは非常によい問いである。「鶏鳴狗盗」全体を理解するための究極の問いだ。この「鶏鳴狗盗」はおそらく『学び合い』に適した教材であろう。
 さて、2組である。2組は「鶏鳴狗盗」に入ったばかり。そこで、昨日の4組と同様、必死になって先へ進む。何とか、昨日の4組と同じところまで進むことができた。
 さあ、問題の反語の箇所である。「君は土禺人の笑ふ所と為ること無きを得んや。」という箇所の解釈である。否定表現の反語であるね。2組で指名した生徒もやはり「笑われないということがあるだろうか、いや、ない。」と訳した。うーむ、これで3クラス中全てのクラスで否定表現の反語の訳し方が間違えたことになる。
 その生徒は授業後に私のところに来て質問をしていった。その時の対応から考えると、やはり直前の表現「あるだろうか」に引きずられて、「いや、ない」としてしまったことが分かった。これはかなり根深い問題だな。
 明日は残りの8組で同様の表現を扱うはずだ。さあ、8組はどう答えてくれるだろうか。