後期中間考査3日目なのだが……

 今日は生徒たちは3日目の問題に格闘していることであろう。今日は3科目のテストがあり、今日が天王山だと生徒の数人が言っていた。がんばってくれよ……。
 という私は、実は年休をとった。しかし、1日中自宅にこもっていたのである。先週、高知へ行って聖書の学びと福音を3日間にわたり語ってきた。今週は木・金と2日間、今度は東京で聖書の学びをするのである。私にとってこんなに間隔が短いのは初めて。しかも、仕事でもテスト期間の前後というかなり忙しい時と重なってしまった。なかなか大変な日々である。そのため、今日1日は完全にオフにして、仕事から頭を遠ざけ、すっかり聖書の学びの準備に専念したのである。これくらいやらないと2日間、合わせて2時間30分の内容は組み立てられない。
 私が聖書のお話をする際、気をつけているのは「私が確信していることを話す」ことである。聖書の学びに関する様々な本が出ている。そして、それらをつなぎ合わせることである程度の話はできてしまうかもしれない。しかし、それでは「私」が語る意味がない。それなら「私」でなくてもいいはずだ。「私」が語るというのは、仮に内容が本に書かれたことの繋ぎ合わせであったとしても、そこに私の確信していることを盛り込むことができるのならば、それはOKだと思う。
 これは授業でも言えることかもしれない。授業で語る内容は様々あろうが、それを語る方法は教員それぞれの「確信」するものでなければならない。借り物の方法はやはり今一つ自信を持ってやれないものだ。
 「追試」という授業方法がある。それは有効なものだと考えている。でも、同時にその授業を追試してみようと考えた時点で、その授業はその人のものとなって動き始めているのではないのかなぁ。その授業に何らかの魅力を感じたということは、その授業に自分の持っていない何かの存在を感じたのであり、それは自分が無意識のうちに欲していた何かであることを感じたのだろうから。だから「追試」は非常に有効な方法である。
 もちろん、自分で授業を開発し、それがうまくいったときの快感はもっと良いものだけれどね。あっ、たとえうまくいかなくても、授業を創ることは面白いものです。