学び合いが必要だろうか

 実は、現代文のテストを採点し終えた。出来は……、残念ながらこちらの期待を裏切っている。特に問題に思うのは、「山月記」においてこちらがあれほど熱を込めて説明したものが、生徒には十分伝わっていなかった、という事実である。しかしこれは、伝わらないのが当然ではないだろうか。教員がどんなに熱を込めて、またどんなに上手な説明で解釈を説明できたとしても、生徒自身が考えて解釈をしたのでなければ頭に残らないのは当然である。結局、生徒自身が学んではいなかったのだ、ということであろう。
 国語の授業とは絶対に、教員がとうとうと語る解釈やら説明やらを生徒が必死で受け止め書き写す、というものでは断じてない。授業時間内に生徒自身が自分で考えるべきものである。今回の「山月記」の授業は、私なりに工夫をしたプリントを作って生徒に与えた。しかし、生徒に考えさせる時間も余り取らず、教員がその都度生徒に指名して答えさせて、その答えを使いながら教員の解釈を伝達する、という形式になってしまった。これでは生徒が考えていないし、理解も深まらないだろう。一番まずい授業をしてしまったようだ。
 その反省を踏まえて、「死にたまふ母」の授業では生徒にいっさい任せようと思う。こちらは課題を示し、それを生徒が自力で解答する。そのような授業を試みてみたい。さらに、その後で、生徒に試験問題を作らせてみようと思う。問題を作ることにより、生徒自身が解釈を深めることにつながるのではないか。
 さて、いかなる結果になるか。今少し思案のしどころである。