哲学対話の記事について

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日本経済新聞のWeb記事より

 日本経済新聞のWeb版に「キセキの高校」と題した記事が掲載されている。今日で3回目であるようだ。
https://www.nikkei.com/article/DGXMZO44480670X00C19A5000000/
https://www.nikkei.com/article/DGXMZO44496650X00C19A5000000/
https://www.nikkei.com/article/DGXMZO44531730Y9A500C1000000/?n_cid=NMAIL007

 この記事は東京都立大山高等学校での様子を報告している。この学校では哲学対話を取り入れている。哲学対話とは、参加者が車座になって座り、参加者によって対話するテーマを話し合って決め、そのことについて各自が自分の考えを話す活動である。話し合うときには毛糸のボールが用いられ、そのボールを持っている者だけが話すことができる。自分の意見を話し終えたら、次の人にそのボールを渡す。また大山高校では上記にあるルールに添って進められ、基本的に発言の自由と場が確保される。そして、ファシリテーターが中心となって、発言したことへの質問が投げかけられるのだ。「どうして?」「なぜ?」と。「そもそも〜はどういうことなのだろう?」「そもそも〜は何故なのだろう?」と、事のそもそも論が語られるのだ。

 しかし、記事によると、こうした哲学対話を繰り返すことで、以前は底辺校だったこの高校の生徒たちの、もともと持っていた対話力が開花されていき、熱心に自分の意見を語る姿が見られるようになる、という。そのことは、生徒たちの落ち着きを生み、生活態度が向上し、近年は進路状況にも大きな進展が見られるという。タイトルに「キセキの高校」とされる所以である。

 私は、この記事を読んで、以前より聞いていた「哲学対話」がどのようなものなのかを知ることができてよかった、と思う。これを実現するには、ファシリテーターを十分に訓練しなければならないかなとも思うが、記事における大山高校の実例を見る限りではそれほど大掛かりでもなさそうだ。なんとなく、生徒を信頼し、生徒に任せていれば、勝手に生徒は力を開花させるような気がする。そしてそれは、今日の教育現場が忘れ去っていることでもあろう。

 同時に、これを「キセキ」と読んでほしくないな、と思う。記事は、卒業生が上智大学の難関学部に入ったとか、進学実績の向上を大きなトピックとしてあげている。あるいは、記者もそうした方が人々の耳目を集めるために、あえてそのようにしているのかもしれない。しかし、第3回目の記事に出てくる、提唱者の東京大学の梶谷真司の基本的な考え方からは、そうした態度は明らかに違っているだろう。この記事の内容が「キセキ」などではなく、どこにでもあるものであってほしい。せめて、新潟県に1つか2つは、こうした実践を積み重ねている学校が出てきてほしいものだと思う。

「哲学対話」か……、私も授業に取り入れてみようかなぁ。