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詩人が逝く

 大岡信さんが亡くなった。4月5日のことだ。とてもショックである。
 私は教員になりたての頃、現代詩にどっぷりハマったことがある。最初に赴任した高校で、4月、1年生の教室で最初に扱った教材が茨木のり子の『詩のこころを読む」だった。この教材の最初に掲載されていた谷川俊太郎の「かなしみ」という詩にノックアウトされた。この詩の内容とよく似た感覚を、私も幼い頃から持っていたからだ。それ以来、詩の世界に俄然興味を持ち、谷川俊太郎の詩や著作を読みふけった。その流れで行けば、盟友である大岡信に行き着くのは当然のことである。大岡信の著作も、まあ読みふけった。私の場合は、彼の詩ではなく、評論物に心奪われたものだ。正岡子規によって否定されていた紀貫之を再評価した『紀貫之』や、『うたげと孤心』などは今でも内容を懐かしく思い出す。『菅原道真』など、彼は古典作品や詩人たちの真髄を描きあげるのが上手だった。私の自宅の書斎には、その頃集めた谷川俊太郎大岡信、そして「櫂」同人である茨木のり子吉野弘の著作が数多くある。この頃は独身で一人暮らしでもあったので、時間に任せて乱読したなぁ。詩歌評論の本を取っ替え引っ替えして、時間も忘れて夜中まで読んでいた。
 そうした思い出を、大岡信の名前を聞くと思い出す。大岡信谷川俊太郎は、私にとっては20代の記憶の大切な一部だ。その大岡信が亡くなった。寂しい思いが募るばかりである。茨木のり子も、吉野弘もすでに故人である。時は過ぎ去っていくのだなぁ。
 朝日新聞の記事によると、大岡信西行の「願はくは 花の下にて 春死なん」の歌が好きだったそうな。まさにその歌のごとく、桜の舞い散る時期に大岡信も逝ったという。切ないことである。