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頭のバランスを取らなければ

 特編Bはいよいよ大詰め、今日と明日を残すのみである。今日は評論の問題である。今西龍太の書物に関する文章である。こうした書物論、書籍論というのもよく見かけるテーマだ。書物というものの独自性、独立性について、馴染みがないとなかなか難しい。つい、書物そのものについてではなく、文学について考えてしまう。だが、書物というのはそう簡単に考えられるような代物ではない。それは書物の歴史を考えると、少しは実感できるだろう。かつては書物と言えば『聖書』だったのだ。そしてそれは、1冊1冊手書きで書かれたものであり、しかも羊皮紙というとんでもなく高価な素材に書かれていたものだ。やがてグーテンベルグによって活版印刷術が導入され、知の世界には革命が起きた。そして大量印刷が可能になっていった。これらの歴史の間に、書物に記されていた「知」の総量の増加分を考えてみるといい。手書きの頃はきわめて少量でしかなかった知が、印刷術の発達とともに爆発的に増加していった。電子メディアを用いる現在では、その知の量はもはや一人の人間の脳細胞では収納不可能なほどに膨れあがっている。そうした知のインフレーションを考えるとき、それをもたらしたのが書物というメディアの変化なのである。
 さて、今日扱った評論はそのような内容のものではない。19世紀の頃には世界の森羅万象の関係を1冊の書物に盛り込もうとしていたが、20世紀では書物から世界の姿を想像するようになった。それらはすべて「書物」という物質的存在によって支えられていた。しかし、電子メディアによる書籍が登場した21世紀の今日では、それらの世界を形象化しようとし、時間も形象化しようとする書籍のあり方がまったく変わってしまうのではないか、いや、物質的存在であることで永続性に限界があった知の姿を、今日の人間はつかむことができないのではないか、といった内容のものである。なかなか思弁的で難しい。しかし、言わんとすることはある程度つかみやすい文章である。構成が明確だからかな。
 この問題を50分間で生徒にさせ、15分間で解説する。もはや内容に踏み込んだ解説はできないので、問いに対する考え方のきっかけのようなものを話す。これくらいの内容だと、準備は大変だけれど、解説プリントを作っていた頃よりは遙かに楽である。もう少し早く、こうした形でやっていた方が良かったかな。東大の問題を解く際には時間配分がかなり重要な要素だと考えられるしね。
 こうして問題演習を繰り返していると、本当に頭が別種の文章を求めるものである。同僚は、評論の問題ばかり読まされているので、個人的に『鬼平犯科帳』あたりを読んでバランスを取っている、と言っていた。それについて激しく同感する。私の場合、それは『ソードアート・オンライン』シリーズのわけだが。本当に、キリトとアスナの物語を飢え乾くように求めている。それも評論問題や随筆問題に頭を悩ませているからかな。