寝不足との戦い

 今日の授業は評論、芸術論である。またまたマルセル・デュシャンが出てくる。現代文の授業で「画家の領分」を読んだけれど、あの中にもデュシャンに関わることが出てきた。デュシャンの「泉」という作品の衝撃は、本当に「芸術」というものの本質をえぐり出した、画期的なものだったのだなぁ。西洋芸術論を語る際に、デュシャンの名が出ない方が珍しい気がする。
 ということは、なかなか分かりにくい文章であるはずだ。何しろ、通常我々が抱いている芸術や芸術作品に対する漠たるイメージとは180度異なる見方を提出するのだ。そして、それこそが「芸術」というものの本質であり、「芸術作品」を「芸術」たらしめている根源でもある。それを明らかにしたデュシャンの功績はやはりすごい。高校生はこうしたことにも、表面的でいいから、理解していてほしい。
 そこで、今日の授業は結果的に本文分析に特化したものになってしまった。まったく意図しなかったのだ。ところが、自作のプリントを使って本文の言わんとするところを説明しているうちに、デュシャンの「泉」の写真を電子黒板に映し出したりして、説明がどんどんエスカレートしてしまった。結局、本文分析を説明している最中に、設問についても説明していることになってしまった。本文分析を終えた段階で残り時間は15分くらいだったので、設問分析の穴埋めプリントをどんどんこちらで穴埋めして確認させる。そのようにして、何とか時間内に終わった。
 ちょっとよろしくなかったな。私が理解しても意味がないのだ。生徒が理解しなければ。私はその手助けができる程度である。そして、話をすればすべて生徒に伝わっているなどと考えることはできない。生徒は穴の開いたバケツではない。水を入れればそのすべてを溜め込める、という単純なはずがない。生徒が自ら理解できるように、教師はせめて説明しなければならないのだ。その意味では、今日の授業は彼らの高い能力に頼ってしまった。私の授業は往々にしてそうした側面があるのかもしれない。生徒に助けられての授業である。