特編Aが終わりつつある

 現在、勤務校で行っている3年生の授業は「特編A」と呼んでいる。ということは、「B」も「C」もあるわけである。「A」は、要するにセンター演習である。その特編Aの授業が次々に最後の時間を迎えている。昨日は理数科の1クラスで最後だった。今日は文系2クラスで最後である。明日はもちろん、残り2クラスが最後の授業となる。3年生の授業で、クラスの形を維持したままの授業はこの特編Aが最後なのだ。センター試験が終わり、自己採点を行った後、行われる特編Bは個別試験対応になるので、クラスを解体して行われる。つまり、今年1年間の現代文なり古典なりの授業が、この特編Aの終わりによって終わることになるのだ。そりゃ、いきおい感傷的にもなる。
 しかし、何しろ最後の授業で取り組むべきものとして割り当てた問題が一筋縄ではいかないものだ。現在使っているS社の問題集は、選択肢の作り方がどうもあまりよくない。正解の選択肢がわかりにくいようになっているし、外しの選択肢が実に微妙なポイントで外すようになっている。それまでK社の問題集を使っていたときはこんなにわかりにくい、選びにくいということはなかった。それは当然得点率にも現れてくる。K社の問題集の時は平均して180点台を連発していた私だが、このS社の問題集を解いている今は下手をすると140点台しか取れないときがある。これは現役時代よりも悪い得点だ。私のセンター型問題への対応能力が急激に衰えるわけはなし。これはやはり問題集自体の問題だと思う。しかも、これが私一人だけの現象ならば、私が悪うございました、ということになる。しかし、同じ現象は同僚の教員たちも同じなのだ。これは個人の問題以外の要素が働いている、と考えざるを得ない。
 しかも、最後の授業に割り当てた問題が、問題のある問題集の中でもさらに問題のある問題なのだ。この小説と古文の問題といったら! もう「魔の問題」である。センター試験直前の授業では、若干易しい問題を解かせ、生徒に自信を多少はつけさせるというのがこれまでの我々の戦略である。しかし、これでは全くの逆効果だ。直前に自信を失わせてどうする! そこで、仕方なく、私自身の得点を公表して、私でもこうなのだ、気にするな、と生徒を慰めて回らなければならない。やれやれ、問題集の選定というのは難しいね。そして、その難しい問題の解説で時間が手一杯になり、生徒との最後の授業の時間を感傷的に振り返る余裕すらもない。これまた、やれやれ、である。
 まあ、生徒たちはそんな最後の授業など気にすることもなく、あっけらかんとしている。というよりも、彼らもまた明後日に迫ったセンター試験への対応で余裕がないのだろう。最後の授業など気にするそぶりはない。それでいいのではないか。
 そもそも私のここ最近の動きが、とても感傷に浸る余裕のないものである。年末の家内の怪我のために、家事手伝いと子どもの世話のために自宅に早く帰る日が多い。あるいは、昨日のように休みを取っている。センター直前の生徒たちと一緒にいる時間があまりない。昨日はセンター激励会が行われたはずだが、それにも出席することはできなかった。どうやら担任団が一人ずつ生徒に激励の言葉を語ったようだ。かつては担任の隠し芸まがいのパフォーマンスが行われるイベントで、それはそれで生徒の緊張を解きほぐすよいイベントであったと思う。しかし、今まで行われていたことの何もかもを変えようというここ数年の趨勢のために、このイベントも性格を大きく変えてしまった。担任たちの単なる激励のお言葉の伝達会になってしまった。こうした変化を残念に思うのは私だけなのかなぁ。どうも、変化に弱くてね。私は生き残る確率の低い人間かもしれない。変化に対応するのに恐ろしく時間がかかる。
 ともあれ、センター試験に向けて着々と時間は過ぎていく。生徒たちの本番での健闘を祈るのみである。そして、できれば天候が守られるように。