「東風吹かばにほひおこせよ梅の花あるじなしとて春を忘るな」

 今日の授業は2コマ。古典講読と理数科現代文。古典講読は昨日の続きである。道真が時平の讒言にあって筑紫へ左遷されてしまう、その経緯を紹介した。道真の幼い子どもが父君と別れるのを悲しみ、その者たちは一緒に連れて行くことを赦された、という件が哀しい。逆に言えば、他の子どもたちは、特に男子は一人一人方々へ流されていったのだし、女子には通う夫の足が遠のいたことだろう。夫を経済的に支えるのは妻の家である。その妻の家主である道真が左遷されたのだ。通ってきていた夫たちが通わなくなるのは当然だろう。そして、幼い子どもたちだけは道真と一緒に筑紫へ下っていった。調べたところでは、太宰府に道真の墓があるそうだが、その墓の近くに道真の子と思われる幼名の男女の墓があるそうだ。道真自身は流されて数年で死んでしまったそうだから、残された幼い子どもたちも身寄りが無く、苦労した末に、幼くして亡くなったのだろう。何とも哀しいことである。それらの辺りを話すと、さすがに教室が静まりかえる。あまりに厳しい刑罰の累加に恐れおののくのである。
 そして、名唱が響く。「東風吹かばにほひおこせよ梅の花あるじなしとて春を忘るな」。どの本を見ても書いていないのだけれど、この「春を忘るな」には道真の悲痛な響きがあるように思う。人間世界では誰も彼も自分のことを忘れ、捨て去ろうとしている今、せめて自然界の梅の花だけは自分を忘れないでいて欲しい、という彼の痛切な声が聞こえるように思う。そんな解説がどこかにあったはずと探したのだが、今のところ見あたらない。私の思い込みだろうか。そして、伝説では、この梅の花が筑紫の主人の下へ一夜にして飛んでいったということだったはずだが。何か、うろ覚えばかりでよろしくないなぁ。
 いいねぇ、大鏡のこの場面は。いろいろなことを思わせられる。道真の悲しみ。しかし、彼を陥れた時平のその恐れもよく分かるのだ。自分よりも才能ある者が帝に寵愛されているのを目にし、それがしかも落ち目の貴族である菅原家の者であるという。自身は勢い盛んな藤原家である。その自分の邪魔をする者として、時平にとって道真は目の上のこぶというか、嫉妬心をかき立てられ、また邪魔な存在だったのだろう。そして、同じ思いを持つ数人の重臣たちの存在が、道真を追い落とそうとする思いを実行に移したのだろう。人間というものの心の暗さをそこに見る。だが、それはすなわち現在の我々自身の中にもあるものなのだ。
 そうした悲しみと、絶望と、しかし、それこそが人間の有り様だという諦観と。多くのことを思わせる。さあ、明日はこの文章の終わりの場面だ。どんな授業ができるだろう、楽しみだ。