いのちは歩き出すものだ

 今日は日曜日。私は集会に行く。日曜日は私にとって大切な時である。今日も午前中に日曜学校に出席し、続いて礼拝に出る。ここで少し聖書の学びをする。今日は結局、新しいいのちを持つ者はどうあるべきか、どうなるのか、についてずっと話をしていたように思う。午前中もその話をする。使徒の働きの3章からペテロがイエス様の復活を証しした時、復活したという証言の言葉だけでなく、生まれつきの足なえがいやされるという奇跡が伴った。コリント第1の15章でのパウロの証しも、復活の証言にはパウロ自身の変化があった。復活したイエス様と共に新しいいのちを与えられた者は、そのいのちにふさわしい歩みをし、それが彼らの証しの力となったのである。いのちは自然にそのいのちの現れを示す。同じように、新しいいのちを受けた我々も、そのいのちにふさわしい現れを示すべきなのである。
 午後は昼食の後、子どもの子守をする。集会所の周りを子どもと共に1周する。まだたどたどしさが残る足取りの子どもと一緒に歩くのはただもう可愛らしい。このころの子どもは本当に無条件で可愛いね。自分の子どもだというひいき目を差し引いても、無条件に可愛いと思う。そんな者をいつも間近で見ていられる幸いを感謝したい。
 午後からは伝道集会である。少しだけ前に出て、福音を語った。午前に開いた使徒の働きの3章を開き、我々はみな霊的に生まれつき足のなえた者なのである。それを、イエス様の御名によってペテロは一言で歩かせたのである。イエス様の御名の権威の素晴らしさをこそ思うべきである。
 家族と一緒に早めに帰宅し、そこからは論文の執筆を再開させる。懸案の第2章、理論部分の執筆を続ける。まだまだ道は遠いが、それでも一番きついところを何とか越えることができたようだ。しかし、今更ながら先行研究を読み直してまとめ直してみると、自分の実践の方向性が確かであったことを確認できるし、同時に、もっとこのところは前に踏み出せば良かったと反省したりしている。せっかくの実践なのだからね、思いっきり実験的にやってみても良かったのに。今度機会を得たら、ぜひやってみよう。