データの解釈におけるコペルニクス的転換

 今日は小中間考査が行われた。とはいえ、3年生は文系は数学のみ、理系は理科がもう1つ加わり、1科目か2科目のみである。さらに今は保護者懇談会期間であるため、午後からは授業がない。午前中2コマ、または1コマ授業がある。私は時間割のマジックで授業が何もなかった。これ幸いと、朝からひたすら博論の執筆に費やす。丸1日、ずっと博論執筆の作業を進めていた。さらに、明日から2日間、3年生は実力テストが行われる。これまた1日がかりのテストなので授業がない。いやはや、ただただ時間だけが必要な身にはこんなにありがたいことはない。その代わり、来週からの授業の準備ができていないので、少々恐ろしいが。
 さて、博論執筆である。とはいえ、今日は昨日書き直した目次案に沿って第6章の考察の部分を書き直し始めた。しかし、考察するために4つの実践を統一的に扱える視点がやはり必要になり、様々に試行錯誤した揚げ句、やはり1要因参加者内分散分析でよいだろうと考えた。そこで、実践のデータをもう一度分散分析にかけ、それを一覧表にまとめる作業にほぼ1日を費やした。その後で考察を書き始めたのだけれど、どうもその文章が空疎な議論を振り回しているような気がしてならなかった。そこで、「とっとと帰って来やがれ」コールが鳴ったので、作業を中断して帰宅した。
 帰宅して子守をしている途中で、分散分析の結果を無理に自分の主張につなげようとするのではなく、分散分析の結果は、読解方略指導の可能性と限界、学習者の相互交流の可能性と限界を示しているのだと気づいた。私はどうやら読解方略指導と相互交流の限界を発見したのである。それが私の結論だ。この発想に至って、ようやく自分自身腑に落ちた。なるほどね。虚心坦懐にデータを眺めるのならば、それしかない。私は自らの実践の価値を強調しようとするあまり、科学者としての目を失っていたようだ。データは自分自身の願いを裏付けるものであれば嬉しい。だが、例え自分の願いとは反する結果が出ても、それは少なくとも自分がやったことに対する真理を明らかにしているのである。「結果が出なかった」も真理である。それが科学を進歩させる。次に続く実践を進歩させるのだ。いやぁ、そうしたことに気づかなかった。当たり前のことなのだけれど、私にとってはパラダイムコペルニクス的転換に匹敵する観点の転回である。
 ということは、書き始めた考察を再々度書き直さなければならない。もう涙が出そうだ。しかし、幸い今日書き直していた考察はまだそんなに分量が多くない。何とか力をかき集めて、足を踏み出していこう。