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考察とは自らも知らなかったことを知ることだ

 今日の授業は3コマ。現代文が2つ、古典が1つ。すべて文系である。
 文系の現代文は快調に進んでいる。「日本の庭」における、桂離宮の美しさについてその加藤周一による説明を少しずつ読み解いている。だが、実はあまり快調でも困るのだ。本校における電子黒板の利用は関心を持つ他高校では注目の的のようで、今月15日にある私立高校の国語の教員が本校での「国語」での使用の様子を視察に来る。その視察先として私ともう一人が名指しされてるのだ。そして、私が見せようと思っている授業はまさに今日の文系の現代文と古典のクラスなのである。さらに、そこで見せようと思っている授業はこの「日本の庭」の読解の授業である。つまり、15日にはまだこの「日本の庭」の授業をしていなくてはならないわけだ。ところが、あまりに快調に進んでいくと、15日を待たずして授業が終わってしまうかもしれない。それは困ることになる。この「日本の庭」が終わったあとはセンター過去問を解く授業進める予定である。そして、今のところこの過去問演習で電子黒板を使う当てが立たないのである。いやぁ、困ったなぁ。進度調節をして、何とか15日に読解の授業をやっているようにしていかなければならない。これは、安全策を採って、進度の遅い理数科の現代文を見せようかなぁ。
 さて、昨日大学に行って指摘された、私の博論の考察について、構成を練り直す作業に取りかかっている。だが、あまり時間が取れず、放課後の2時間程度しかそのために割けなかった。そして、その考察の方法について思い悩んだ。よって、こちらは遅々として進んでいかない。
 考察というのは決して自分の実践をまとめるだけではない。自分の実践を別の視点から横断的・総合的に見ることによって、実践を行った当の私にさえ意図していなかったある事実を捕まえるものである。そこに研究の醍醐味がある。そのためには、行った5つの実践を統一的な観点から眺めることのできる方法が必要だ。それをいろいろと試し始めたのだが、途中で、これは統一的な観点にならないことに気づいた。別の方法を用いなければならない。幸い、その方法の候補はすぐに思いつくことができたが、果たしてそれでよいかどうか。そして、それを調査し、形に整えていくのにどれだけの時間がかかるか。心配・不安は尽きない。しかし、心配してもどうしようもない。草稿を書き上げた姿を強くイメージして、進んでいこう。