予想していたことなのに

 私が参加している大学でのゼミは本来は金曜日なのだが、諸般の事情で今日に開催された。そこで、私が書いている博論の一部、とりあえず書き終えた「考察」の部分を俎上に挙げてもらった。ほとんど推敲もされていない文章なので、このままでは済まされまいとは思っていたが、そこで指摘されたのはもっと根本的なことだった。自分では「これだ!」と思って採用した分析方法が、結局自分が掲げたテーマと離れていたのである。そのため、分析し、考察した結果がいつの間にか自分が明らかにしたいと思っていたものとは別のものになってしまった。自分の中で、その明らかにしたいことは自明のものになっていてしまい、それ自体を検討するというものにはなっていなかったことに気づかされたのだ。うーむ、これは大問題だぞ。と言うのも、今、書いている部分はこの考察を目指して書いているものだから、この考察が変わってしまえば、今書いている箇所の論の進め方も変えなければならない。それが、ここ数日この箇所が前進しなかった理由でもあったのかなぁ。
 書き直しをしなければならないだろうことは重々承知していたつもりだった。だが、これほどの大変更、あるいは大追加をしなければならないものだとは思わなかった。やはり、突貫工事はダメだなぁ。でも、今のこの時期に気づかせてくれて良かった。そうでなければ、書いたことのほぼすべてが無駄になるところだった。そう前向きに考えているせいか、実は意外にショックを受けていない。これを立て直す方策はまだ見つからないのだけれどね。
 今日の授業は3コマ。現代文が2つ、古典が1つ。現代文は理数科と文系それぞれ1つずつだったが、どちらも同じ箇所を扱った。加藤周一の「日本の庭」の、難解な表現をできるだけ本文の説明を汲み取りながらかみ砕いて説明する、その方法を丁寧に説明する。どう考えればこの難解な表現を説明できるのか、そのために本文のどこに注目すべきなのか、そんなことをずっと説明し、生徒に考えさせ、隣同士で意見を交流させたりして、進めている。
 古典は「御法」の、紫の上が自らの小康状態を喜ぶ源氏の姿を悲しむという場面を読んだ。そして、紫の上の和歌の解釈にさしかかって終わった。ちょっと時間をかけすぎるかな。生徒は指名すると実にきれいに訳すのだが、彼らの訳には人物関係が全く含まれていない。したがって、彼らは物語の内容を、人物たちの心情を、そこに込めた紫式部の推測される意図を、十分に理解し、解釈しているとは言えない。いわば、読解方略を使えていない状態だろう。そこのところを生徒に考えさせる発問をし、隣同士で考えさせ、彼らの意見を吸い上げながら訳に補足をしている。時間がかかるわけか。
 さあ、秋田に行って聖書の学びをする日が近づいてきた。博論も大いに気になるが、そろそろ全精力をそちらの準備に注ぎ込んでいこう。