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休みを取っては見たものの……

 10月の末というのは私にとっても締切との戦いの日々だが、生徒にとっても同様であるらしい。医学部を推薦で受験しようとする生徒たちが数名、志望理由書を添削して欲しいと私のところに持ってくる。明日が締切なのに、中には初めて持ってくる者もいる。ところが、今日は1コマしか授業のない私は、授業を終えたら年休を取って論文を書こうと思っていたのだ。彼らの文章の添削を始めればとうていそんなことはできず、仕方なく年休を午後からに変更し、必死で生徒の文章を添削し始める。
 だいたいは400字が制限の文章である。実は400字というのは少々扱いが難しい字数のものだ。これにきちんとした文章を書くにはパラグラフライティングが必要である。そして、言わなければならないことが過不足なく入っているかどうか、パラグラフ単位で検討しなければならない。しかし生徒たちはそのような訓練を受けていないものだから、勢いでどんどん書いてしまう。結果として係り受けがずれている文になったり、必要なことが漏れている文章になったりする。そのために添削する私が苦労するわけだ。
 ともあれ、何とか4人分の添削を昼までに終え、14時から年休を取って自宅に戻った。さあ、博論を書くぞと思っていたが、家に帰れば様々な雑事に取り紛れてしまう。また、明日の授業の準備もしなければならない。そして、今は第2章の途中を書いているが、論をどう流すか少々やっかいな所にさしかかっている。それらに時間がかかり、結局はきわめて生産性の低い時間を過ごしてしまった。正味2時間という時間ではあまりまとまったことはできないのだよね。いっそのことそのまま学校に残って、仕事の合間を見て書いていた方が良かったかもしれない。
 さて、その1コマの授業は理数科の現代文である。「日本の庭」はいよいよ桂離宮の美しさを分析する段に入っている。その中で、「人は桂離宮を見ることができない。その中に入ることができるだけである。」という件がある。これを理解するために、「中に入る」という表現と似た表現、言い換えとなる表現を探させる。すると、「もう一つの世界の中にいる」「第二の自然の中にいる」という表現があることに生徒は気づくのだ。そこで、この「もう一つの世界」とか「第二の自然」が「桂離宮」を指すことになることを指摘する。評論はこのように自らの主張を別の表現で言い換えながら進んでいく。そうしたことを生徒に教える。
 そして、「もう一つの世界」「第二の自然」とはどういうことか説明する作業に移る。まず、「もう一つの世界」と言うからには、「元の世界」があるわけだ。その世界のことをまずは理解して、「もう一つの世界」とはそれとは対照的なものであるはずだ。そこで、その「元の世界」のことを一般的にどのように言うか、生徒に相談させ、聞いてみた。すると「俗世」という答えがあった。意外な答えだったので、ではその対照的なものは? と同じ生徒に聞いてみると、「遁世」と答えた。悪くない答えである。ただ、「俗世」というのはその言葉の中にすでにある立場からの判断が入っている。ここではひとまずニュートラルな立場の言葉を用意し、そこから考えるべきだ。その生徒の答えはとりあえず採用して、あとで説明に使ったけれど、ニュートラルな立場の言葉が必要なのだと教えれば良かったな。とっさにそこまで頭が回らない。
 ニュートラルな立場の言葉として、たとえば「現実の世界」というものがあるだろう。では、その「現実の世界」と対照的な言葉は何か、生徒に相談させて答えさせた。すると「理想」と答えた。これまたある判断をすでに含んでいる言葉である。つまり、いずれも現実の世界を「悪」と考えるものだ。ここでは芸術の世界の話をしているのだから、あまり倫理的に物事を考える必要はない。そこで、こちらから「架空」という言葉を示し、さらにそれを「虚構」と言い換えて、桂離宮が「虚構の世界」つまり、人間の精神が生み出した芸術的世界である、と説明した。
 生徒の倫理的判断傾向はかなり根強いものがある。何かというと、倫理的基準に基づく、あるいは倫理的判断が入る。言葉が彼らの口から出てくる。これまでの学校教育の偉大な成果であろう。だが、そうして一つの見方だけを刷り込んでいくのは決して良い教育とは言えないだろう。
 と同時に、文章の主題、文章の背景について常に理解させた上で、文章の細部を理解すべきことも再び気づかせられた。「日本の庭」は芸術論である。芸術は倫理とは別の原理で動くものだ。そのことを前提に考えていなければ、芸術についての考えはまっとうな方向へは進まないだろう。
 いろいろなことを気づかせられた授業であった。授業としては収穫が多かったが自分としては実り少なき1日であった。