両手を使える幸せ

 ひょんなことから右腕を痛めた。全く誰の責任でもなく、ただ自分の問題なので一層後悔するばかりである。とはいえ、湿布をして固定をしていると、少しずつ回復していくのにはありがたく思う。今日も手首を回転させると激痛が走るのだが、昨日のように右腕の上げ下ろしだけで激痛が走るようなことはなくなった。さらに、右腕の可動範囲もだいぶ広がった。昨日はあまりの痛さに、家に帰ってからはずっと右腕を布で包んで首から吊っていたような状態だった。それが今日は、その必要はないばかりか、何と右手も使って両手でキーボードを打つことができた。右手首は固定されているので、右腕全体がちょっと変な方向で机の上に置かねばならず、両手を「ハ」の字に置くことができないけれどね。そのために、誤入力が多くて困ってしまうのだが、それでも片手で打っていた時に比べれば雲泥の差だ。いやはや、少しずつでも回復してくれるのが嬉しい。
 そんな中、今日も2コマの授業を行った。どちらも古典。古典の場合は、電子黒板を使って本文をスクリーンに映し出し、そこに書き込みをしていることを前提にすれば、黒板全体にチョークででかでかと書き込みをする必要がない。よって、手の養生にはありがたいことである。とはいえ、黒板にものを書くというのはずいぶん不自然なことなのだね。机の上で鉛筆を使ってものを書く時にはさほど痛まない手首が、黒板でチョークを使って書こうとすると時に激痛が走る。そもそも垂直に立っている壁にものを書こうとするのだもの、不自然な行為だ。だから黒板の字は、普段紙に書く場合もそうだけれど、見づらい下手な字しか書けないのだいや、これは私の黒板書道(?)の修行が足りないせいだけれどね。
 1クラスは源氏物語の「若菜上」を進めている。あと2時間で着実に終わる。もう1クラスは「御法」巻である。紫の上のやつれ、やせ細った姿、しかしそれさえも上品で優美であるという。ふっくらとした顔つきが美人であった当時の美的感覚からしたら、やせ細った紫の上はやはり病的であっただろう。しかし、それさえも美しいと感じさせる、その美質である。それは外見上のものよりも、彼女が生きてきたその人生から来る内面的な美しさが外にしみ出ているものなのかもしれない。源氏物語の研究の中に、この「御法」における紫の上の死の場面は竹取物語においてかぐや姫が月世界に帰る場面になぞらえている、というのがあるそうだ。紫の上の死の日付が8月15日、つまり仲秋の名月の日であり、それはかぐや姫が月に帰った日と同じであるということから考えたものらしい。なるほど、だからこそ竹取物語で翁が不老長寿の薬を富士山で焼いたように、光源氏も紫の上の手紙を焼いてしまうのだね。物語の話形がこうして受け継がれているわけだ。
 今、博士論文を書きながら、『あさきゆめみし』を読み返している。源氏物語のあらすじを再確認したいと思ったからだ。あらすじではあるが、これを読むことによってかなりの細部まで再現することができる。むろん、大和和紀の創作の部分と混同しないよう気をつけなければいけないけれどね。でも、これが一番手っ取り早く源氏物語の世界を理解できると思うけれどなぁ。偉大な仕事だと思う。