日本の古典は今日に生きているか?

 今日の授業は3コマ。すべて現代文である。1クラスだけテスト返しがあったが、どのクラスも「日本の庭」を読み進めた。
 理数科のクラスは、内容に入っていくのが初めてであるため、まず修学院離宮竜安寺石庭と桂離宮の紹介ビデオを見せる。その後、ネットで入手した月見台の写真も見せる。これはあまりイメージを喚起しにくかったかな。やはりビデオ映像の方が良いね。生徒に見せたYouTubeのビデオは、要はスライドショーのようなものだが、それでも効果的な音楽と一緒に見せられるとなかなかイメージをつかみやすい。その後、日本の古典について、「強制のない今では、日本の古典や日本精神について語るのは、季節外れのように見える」という件をどう説明するか、考えさせる。まずはこの箇所を部分に分け、「季節外れ」という比喩の意味を確認させた。次に「強制のない今では」とはどういう時期のことか、「日本の古典や日本精神について語るのは季節外れだ」というのは何故かを考えさせるために、本文の展開を最初からたどっていく。この時間では、その途中までで終わった。
 文系は1クラスがテスト返しと授業、もう1クラスが授業を進め、第一段の読み取りを終えた。どちらも理数科クラスでやったように、日本には現代の問題の解決に資する古典を自国の作品の中に持っていない、という主張を理解するところまでは進んだ。私は、加藤周一の「日本の庭」ではそのように主張していると読み取ったのだが、果たしてどうだろうか。同僚は、日本の庭は美しいのだけれど、その美しさは日本人に知られていない、という主張が最初にあり、それと同様に、日本の古典のことが述べられているのではないか、という解釈を示してくれた。なるほど、そのように読めば、日本の古典も本来は重要な点があるのだが、それは知られていない、ということになる。だが、この第一段を読んでいると、どうも日本古典については否定的な印象を受けるのだけれどね。そしてそれは私の実感につながるのだけれどね。でも、本文にそう書いてあるのだから、やはり筆者は日本古典の価値を認めつつ、それが知られていないと主張しているのかな。まだまだ読みが浅い私である。
 その後、大学に行ってゼミに参加したり、指導を受けたりした。私が書かねばならない「論文」の草稿を書くのに与えられた時間は約1ヶ月。さて、どれだけ死にものぐるいになれるかだね。今、風邪を引いており、体調が悪い。この1ヶ月は体力勝負でもある。どこまで耐えられるか、まずはやってみることとしよう。